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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
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ウォーターフォード

 ヘンリー・チューダーは、『ポズワースの戦い』に勝利してヘンリー七世王になったが、その血統上の根拠は、少し薄弱だった。

 彼が即位できたのは、母のマーガレット・ヴォーフォートがランカスター朝の血を引いていたから、ということになっている。


 血統上から見る限りでは、ヘンリーより正当性の強い王位候補者がチューダー派以外に何人か残されている。なので、ヘンリー七世は即位後もイングランド王を僭称せんしょうする者に悩まされることになる。


 例えば、ウォリック伯エドワード・プランタジネットは、その名が示すとおり、プランタジネット朝のもっとも正統な後継者だった。しかし、ランカスター朝でもヨーク朝でも無視されてきた。

 ヘンリーが即位して新たにチューダー朝を開いた時、彼の即位に反対する者達が、ウォリック伯を担ぎ出そうとする。

 ヘンリーは、やむを得ずウォリック伯をロンドン塔に投獄する。伯爵といってもまだ子供だ。

 ヘンリー即位翌年の一四八六年のことだ。

反対派が、市井しせいのランバート・シムネルという十歳くらいの子供を連れてきた。パン屋か商人の息子だったらしい。

そして、実はこの子はロンドン塔から脱走したウォリック伯だ、本物のプランタジネットだ、と触れ回りはじめる。

デマだったが、それに乗る者もいた。アイルランド総督のキルデア伯だった。彼はランバート達をアイルランドのダブリンに招き、大聖堂で戴冠たいかんさせ、『エドワード六世』と名乗らせて、一方でイングランド侵攻軍を募集する。


 あきれたヘンリー七世が、ロンドン塔に閉じ込めておいた本物のウォリック伯を連れ出してロンドン市民に紹介した。見世物にした、と言ってもいいだろう。まだ十二歳なのにかわいそうなことだ。


 キルデア伯軍はイングランドに上陸したが、大義名分を失って敗れる。反乱者達は一様に処分された。しかし、ランバート・シムネルはなにもわからずに、かつがれただけだろう、ヘンリーはそう判断して罰することをしなかった。

 ランバートは王室の厨房ちゅうぼうの仕事を与えられ、後はおだやかに暮らしたらしい。




 次にあらわれたニセ者は、パーキン・ウォーベックという男だった。こちらは大人である。彼は自身をイングランド王エドワード四世の次男、ヨーク公リチャードである、とかたった。


リチャード三世によってロンドン塔に幽閉された『塔の王子たち』の弟の方のことである。本物だったら、ヨーク派の正統になる。


天性の詐欺師の素質があったのだろう。フランスに行って、シャルル八世に認められる。『イタリア戦争』を始めた王だ。しかし、シャルルはヘンリーと『エタープルの和約』を結んでいることは、以前に書いた。

その和約には『ヨーク家末裔に対する支援を止める』とあったので、シャルルはどうすることもできない。

次に訪ねたのはブルゴーニュ公国だった。ドイツとフランスの間で栄えていた国でネーデルランドも含まれる。


ここにはマーガレット・オブ・ヨークという女性が住んでいた、前のブルゴーニュ公(シャルル勇胆ゆうたん公)の妻として、イングランドのヨーク家から嫁いでいた。

エドワード四世の妹、そしてリチャード三世の姉でもあった。つまり、ヨーク公リチャードの叔母おばにあたる。

彼女は、パーキン・ウォーベックのことを信じた。実の甥として扱う。夫に先立たれた後家ごけさんをだますとは、ひどい。


マーガレットは、イカサマ師にヨーク家の宮廷作法を詳しく教え込む。いっぱしの宮廷人となったパーキンは、次には金箔付きで、神聖ローマ帝国を訪ねる。

マーガレットの娘マリーは神聖ローマ皇帝マクシミリアン一世に嫁いでいた。シャルルとマーガレット・オブ・ヨークの間に出来た子供はマリーだけだった。この結婚により、ハプスブルグがネーデルランドを支配下に収めることに成功している。


パーキンは、神聖ローマ皇帝にも信用される。先代の皇帝、フリードリヒ三世の葬儀に、神妙な顔をして参列していた、というから恐れ入る。

ここでパーキンは皇帝から、イングランド王リチャード四世として認められてしまう。だんだん本格的になってきた。


 ヨーロッパ本土に避難していたヨーク派を集めて、船でケント州のディールに上陸するが失敗する。ディールはドーバーの港の近くである。

次に狙ったのは、アイルランドのウォーターフォードだった。反イングランド派を頼ろうとしたのだろう。


ところが、ウォーターフォードに上陸しようとしたところ、拒否される。


 ウォーターフォードは、アイルランド島の南東にある街で、中世にはダブリンに次ぐ第二の港湾都市だった。

 西から東に流れるシュア川の南に街が拡がる。街の東側には南から流れてくるジョンズ川があり、街のはずれでシュア川に合流する。

 

パーキンの軍は一四九五年七月二十三日に上陸し、ウォーターフォードの街を包囲する。これに対して街の側は東を流れるジョンズ川をせき止め、町の東側を水浸しにする。パーキン軍は、南と西に寄る。これに対してウォーターフォードを囲む城塞の要所に設けられた塔から砲撃が行われた。

 この塔の幾つかは、今でも残っている。シュア川とジョンズ川の合流点にあるレジナルド塔は特に良く残っていて、今は博物館になっている」


 砲撃はパーキンが連れてきた船の幾つかを破壊することに成功する。それ以外にも、ウォーターフォードは四百本の弓と三千本もの矢を持っていた。これはヘンリー七世から贈られたものだ。

前のランバート・シムネル事件の時に、アイルランドの中でも、ウォーターフォードが加担しなかったことに対するヘンリーからの感謝の印だった。


結局パーキンは十一日で包囲をき、スコットランドに去っていく。


当時イングランドと敵対していたスコットランドに渡ったパーキンは、さらに歓迎され、貴族の娘と結婚し、スコットランド王から年金までせしめ、それどころかスコットランド王自身がイングランドに攻め込んだ。


 しかし、運はそこまでだった。二年後にパーキン自身がイングランドに攻め込んだところ、敗北して捕虜になる。

 彼に対しては、ヘンリーは容赦しなかった。一四九九年にパーキンは絞首刑にされている。


 二つの事件は、即位間もない不安定な時期のことで、ヘンリーもさぞかし苦しんだであろう。そんな時にウォーターフォードは二度までも彼を支持した。

 さぞや心の支えになったにちがいない。後にヘンリーはこの街に『いまおかされざる街、ウォーターフォード』という標語ひょうごを贈る。


 そして、そんなウォーターフォードに産業を与えたい、ヘンリーが考えていた。そんなときに現れたのがクリスタル産業だった。


 ウォーターフォードは、現実でもクリスタル産業が盛んです。しかし、それは彼らが自力で発展させた産業で、片田商店に教えてもらった、というのはあくまでも創作上のことです。念のため。

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