サヴォナオーラ 2
教皇インノケンティウス八世の治世は八年程だった。一四八四年に就任し、一四九二年七月に逝去する。コロンブスが新大陸を発見する年だ。そして、この年に、フィレンツェのロレンツォ・デ・メディチも死去している。
次の教皇にはアレクサンデル六世が就任する。スペイン両王のイザベラとフェルナンドが支援した、あの男だ。本名をロドリゴ・デ・ボルハという。イタリア風に言えばボルジアである。
チェザーレ・ボルジアとルクレツィア・ボルジアの父だと、以前書いたことがある。
この頃には、ジロラモ・サヴォナローラが新教皇に期待することはなくなっていた。次から次へと、どれも生臭坊主ばかりが教皇になる。
教皇は推薦する枢機卿の多数決により決まる。その票をカネで買っているのだから、無理もあるまい。
教皇になった者は、借金をして枢機卿の票を買ったのであるから、返済のためにカネを集めなければならない。ロドリゴの場合には若くからローマ教会の役職についていたので借金をしなかったかもしれないが、それにしても使った分は回収したい。どのようにして集めるのか。
例えば、自分の庶子を枢機卿に任命すれば高収入が見込める。なので、婚外子のチェザーレをさっそくバレンシア枢機卿にする。
枢機卿になれば、『聖職禄』というお金が管轄する教区や修道院から納められる。また、管轄地の土地から地代や農産物の収益も得られる。くわえて教皇庁からも俸給を受けることができる。多額の収入を得ることが出来た。
また、カトリックには『聖年』という制度があった。教皇が、ある年を聖年とする、と決めるとその年が聖年になる。
聖年にローマ巡礼を行った信者には、『特別な赦し』が与えられるとされ、ローマは巡礼者でにぎわう。教会に喜捨や献金がなされ、ローマ教会は潤う。
最初は西暦一三〇〇年を、時の教皇が聖年と定めた。よほど儲かったのだろう。一三五〇年、一三九〇年、一四〇〇年と、だんだん間隔が短くなっていった。
しかし、あまり間隔が短いと、ありがたみが薄れる。集金額も少なくなったのだろうか、以降は二十五年ごとになった。
アレクサンデル六世にとっての聖年は一六〇〇年が予定されていた。せいぜい派手なイベントになるように、いろいろ趣向を凝らす。「聖なる扉」という仕掛けを考えたのはアレクサンデル六世である。
他にも、聖年にローマまで来ることができない者に対しては、同等の効果を与えるとして贖宥状(免罪符のこと)が発行され、カトリックを信仰する各地でしきりに配られる予定になっている。もちろん高額の寄進と引き換えだ。
このような有様であるから、もはやジロラモは、ローマ教会の刷新は、『公会議』によるしかない、と考えていたようだ。
公会議とはキリスト教世界の代表者が一同に集まって、キリスト教の教義などについて審議して決定する、キリスト教会の最高会議とされている。
集まる代表者には、神聖ローマ皇帝、国王なども含まれる。
【見よ、神の剣はすみやかに地上に振りおろされるであろう】
そう説教するジロラモは、さぞや歯ぎしりをしたことだろう。ところが、その『神の剣』が、向こうからフィレンツェにやってきた。
一四九四年のフランスのシャルル八世による『第一次イタリア戦争』が始まったのだ。フランス軍がイタリアに侵入したことをフィレンツェが知ったのは九月二十一日だった。
サヴォナローラが、ひさしぶりにフィレンツェの説教壇に立った。
【見よ、わたしは地上に洪水を起こすであろう!】
それが、彼の第一声だった。聴衆は皆、押し寄せるフランス軍を、轟く洪水として捉えただろう。
「私は以前からそのように預言してきた。そして、いままさに、その時が来たのだ」
聴衆が慄く。当時十九歳のミケランジェロも聴衆の一人だったそうだ。サヴォナローラが『預言者』になった瞬間である。
メディチ家では、ロレンツィオの後を彼の長男のピエロが継いでいた。まだ二十二歳だった。ピエロがフランスの侵攻に対して、どうしたかは以前にも書いた。
ピエロは独断でフランス軍を訪れ、無条件降伏に近い交渉を纏めてしまう。
彼はイタリア西岸沿いに延びるサルツァネッロ、サルザナ、ピエトラサンタ、ピサ、リボルノをフランス軍に明け渡す上に、高額の支払い行うことを約束した。
これにフィレンツェの市民が激怒した。ピエロを排除して、市民が別途、改めて交渉することにした。一四九四年十一月四日のフィレンツェ評議会は、政庁の名で、フランス王に使節団を送ることを決める。
フィレンツェは使節団の団長に、サヴォナローラを指名した。ジロラモは、修道院の同意があれば、受諾すると言った。サン・マルコ修道院が同意する。
ジロラモは翌日、たった一人でピサのフランス王の元に向かう。これにフィレンツェの市民が驚く。フィレンツェの使者が単身で相手国に向かった例など無かった。
市民があわてて、使節団を構成してサヴォナローラを追跡する。飄々とした男のようだ。
十一月九日、フィレンツェに戻ったピエロは、町の不穏な空気を感じて、ヴェネツィアに亡命する。
同じころ、ピサでジロラモがフランス王シャルルを会っていた。サヴォナローラの事はシャルル王も知っていた。彼はそれ程有名になっていた。
冒頭に、サヴォナローラがフランス王に言った。
「もし王の身に神罰が降りかかるのを避けたければ、フィレンツェを友好国とおぼしめすように」
その後の会談についての記録は残っていないそうだ。
ただ、ピサを出発してフィレンツェに入城したフランス軍が、フィレンツェを略奪することはなかった。
十一月二十五日に双方で結んだ協定には、『フランス王がフィレンツェの自由の復興と保護につとめる』という文が入れられた。
ピエロが約束した支払は減額される。フランスが無血で占領したピサなど五つの要塞は、ナポリ遠征の終了とともに、フィレンツェに返還されることが決まる。遠征が終わらなくとも二年後には返還するという時限も約された。
そして、十一月二十八日、フランス軍はフィレンツェを去り、ローマに向かう。
フィレンツェで荒らされたのは、主人のいなくなったメディチ邸だけだった。
サヴォナローラは、フィレンツェの英雄になった。