アマチュア無線
堺とイングランドのオルダニー島とは、案外近い。一万キロを少し切るくらいの距離だった。地球の反対側、堺から最も遠い地点まで約二万キロなので、その半分しかない。
地球上の二点を結ぶ最短航路を『大圏航路』とか『大圏コース』などと呼ぶ。航空機や船舶の航路として利用されている。
アメリカ東海岸のニューヨークから日本に飛行する旅客機が、ハワイではなく、アラスカ上空を飛ぶのも、それが最短コースだからだ。
逆の場合には、偏西風が利用できるので、もう少し南側を通る場合もあるかもしれない。
堺から発した電波は、北朝鮮とロシアの国境あたりで上陸し、バイカル湖の北側を通り、ノバヤ・ゼムリャ島で北極海を跨ぎ、フィンランド、スウェーデン上空を通過して、イギリスに到達する。
アンテナから発射された電波は、障害物が全くなければ距離の二乗に反比例して急速に減衰する。球の表面がモデルになる。
けれども短波は地表と電離層の間で反射しながら伝わるので、距離の一乗に反比例することになる。厳密にいえば、もっと複雑なことになるが、ここでは、それは無視しよう。
つまり、球の表面ではなく、円の縁のモデルに近い、ということだ。
なので、日本のアマチュア無線家が深夜に短波受信機の電源を入れると、ヨーロッパの短波放送局の電波を受信することも出来る。
犬丸達のパナマは、一万四千キロだから、イギリスより少し遠い。なので、ちょっと電波が伝わりにくいように、小説の中では書いた。
ついでなので、アマチュア無線について、もうすこし話すことにしよう。アマチュア無線の歴史は八十年後のパソコンとインターネットの発達に似ている。
その最初は、個人が趣味で電波を発振したり受信したりするところから始まった。
アメリカでは、一九〇五年に大衆向け電波送受信機の通信販売が始まる。『テリムコ』という製品だった。同年は日本が『日本海海戦』に勝利した年だ。
秋山真之の『天気晴朗ナレドモ波高シ』が朝鮮半島、鎮海湾の『三笠』から東京の大本営に無線で打電された年ということである。
『テムリコ』は当初八.五ドル、後に十ドルで発売された。当時のドルの価値をCopilotさんに尋ねたら(今日はChatGPTさんがお休みの様でした)、現在の約三十ドルになるそうだ。
日本円にすると、四万五千円程度だ。子供のクリスマスプレゼントに出来ないことはない価格だ。かなり高いプレゼントだが。
当時のアメリカで、これが人気になった。大人は無線送受信の動作を確認すると、すぐに飽きてしまったが、若者と子供は夢中になった。
高出力に改造をする。相互に通信を始める。バッテリーで動作したので移動通信をする猛者も現れた。当時のアメリカには電波法などなかったので、フリーダムだった。
ちょうど一九七〇年代のマイコン、八〇年代のパソコン黎明期に似ている。
さすがのUSAも一九一二年に電波法を制定して、個人が無線局を開くには免許が必要になった。
さらに一九一四年には第一次世界大戦がはじまり、民間の電波利用が規制され、いったんアマチュア無線は下火になる。
大戦終結後の一九一九年に、規制が解除されると、待ち望んでいたアマチュア無線家が活動を再開する。
一九二三年にアメリカのフレッド・シュネルとフランスのレオン・デロイが大西洋横断双方向通信に成功する。
同じ年の内にアメリカとイギリスの双方向も成功した。次の年には、南北アメリカ間、南アメリカとニュージーランド、北米とニュージーランド、ロンドンとニュージーランド間の通信も成功した。
ロンドンとニュージーランドは、一万八千キロメートルある。ほとんど地球の反対側だった。これくらい遠いと、常に通信できるわけではないだろう。
一九九〇年代のインターネットの普及に似ている。
アマチュア無線家は、自宅の設備だけで世界中の人々と会話が出来るようになった。アメリカの若者は農機具や自動車が置かれたガレージで、日本の若者は布団袋や衣装行李の置かれた屋根裏部屋で、深夜にモールス通信や人の声に耳を傾けた。
そして、このように、世界中の人々が会話をすることにより、二度と悲惨な世界戦争など起こらなくなるに違いない、そう夢見た。
国家や新聞などの情報に惑わされず、互いの直接の声が聞けるからだ。
インターネットの初期にも、同じように考える若者は、いた。しかし、いまやネットはデマだらけになってしまった。相互の憎悪を掻き立てる道具としても利用されている。犯罪の道具にもなり果てた。
もちろん、適切に利用すれば、インターネットはいまでも便利な通信手段であることは間違いないけれども。
人間は、技術ですばらしい製品を作るが、いつも賢く利用するわけではない。
一方で、電波の利用は別の方面にも及んだ。一九二〇年、民間ラジオ放送会社である『KDKA』が開設され、ラジオ受信機が発売される。電源を入れて、周波数を合わせるだけで、音楽や軽妙な会話、ニュースなどを聞くことができた。
むき出しの真空管とヘッドセットではなく、マホガニーのケースに入れられ、おしゃれなサランネットに覆われたラジオは、ガレージよりも、リビングルームによく似合う。
これならば、無線マニアの若者でなくとも操作が出来る。同じくCopilotさんに尋ねたところ、アメリカのラジオ局は、一九二三年までの四年間で五五〇局に増えた。
家庭へのラジオ受信機の普及は一九二五年には十パーセント、一九三〇年には八十五パーセントになったという。
日本でラジオ放送が始まったのは一九二五年の東京放送局(JOAK)からだ。
スティーブン・ジョブズのiPhone,iPadに酷似しているではないか。機能を限定し、誰にでも使えるようにして、おしゃれにパッケージングすることにより、爆発的に普及させる。
おそらく、ジョブズはラジオ普及の歴史を学んでいたと思う。彼の伝記を読んでいないので、なんとも言えないが、伝記で言及しているかもしれない。
堺の片田が、オルダニー島の安宅丸と会話するところから始めようと思って書き始めたら、思わぬ脱線をしてしまいました。
次回は物語に戻ります。