石英の石臼 (せきえい の いしうす)
『夕張』が錨を上げて、無人の村を後にする。さらに西に向かうと、北に伸びた岬を回ったところに、ラ・イザベラのスペイン植民地があった。
艦長が望遠鏡で港内を伺うと、十数隻の西洋式帆船が停泊している。
停泊しているので、帆は巻き上げられている。しかし、一隻が帆の整備のためか、一枚だけ帆を拡げていた。
「大きいやつは、檣三本。中央の檣のみ、横桁が二本だ。主帆が展帆されている。外輪及び煙突は無いようだ」艦長が言った。
帆船では檣の本数、桁の数で、大体の性能が想定できる。外輪と煙突は機関の有無に関わる。
「ほう、帆に赤い十字が描かれている。片田殿の言う、スペイン船で間違いないようだ」
「艦長、合戦なさるのですか」
「いや、伝染病の拡散防止を優先する。スペイン植民地を発見したら、すぐにパナマに帰還しなければならない」
「でも、あそこの帆船が出航するのでは」
「奴ら、当分は、この島の植民地を確立するだけで、手一杯だろう」
「でも、日本にも天然痘があるけど、あそこまで蔓延することはないよね」米十が料理長に言った。
「ああ、俺は病に関しては詳しくないが、それくらいは知っている。国では、ほとんどの大人が免疫というものを持っているからだ」
「免疫」
「ああ、天然痘は、一度伝染ると、二度とかからない。なので、感染するのは子供だけだ。ところが、ここでは誰も天然痘に伝染ったことがない。それであんなことになるんだ」
「そうか」
料理長、米十、金太郎、熊五郎の四人が船首倉庫に閉じ込められている。暇だった。
「それにしても、恐ろしいもんだな、天然痘」熊五郎が言う。
「ああ、日本に初めて天然痘が来たときには、大変なことになったらしい」と、金太郎。
「どんなふうに、大変だったんだ」
「そりゃあ、なんでも、御門が奈良の大仏を建てる程、大変だった」
「また、いつものホラ話かよ」
「そうじゃない、本当のことだ。天然痘の疫病が流行る、干ばつで飢饉になる、大地震もあった。それで時の御門が大仏を置いたんだ」
金太郎の言っていることは史実だった。天平七年(西暦七三五年)に、日本に天然痘がもたらされ、二年後の天平九年に日本全国で大流行した。この時、庶民はおろか貴族までにも多くの犠牲を出すことになる。
続日本紀によると、九州北部の大宰府管内から流行が始まった、とされているので、おおかた遣新羅使か遣唐使を通じて大陸よりやってきたのだと思われる。
このように流行の経過が記録に残っているのは、唐の制度をまねて作った養老令のなかに、疫病の報告義務があったからだ。
当時、朝廷は全国の疫病の流行状況を把握できた。
時の人口の三分の一、百万から百五十万人が犠牲になったと推計されている。
この時代は飢饉も多く、三年前の天平六年には大地震があった。九州では『藤原広嗣の乱』という戦争もあった。それやこれやで、時の天皇、聖武天皇が、社会不安を取り除き、国を安定させたい、との願いを込めて、東大寺に大きな廬舎那仏を造立することにしたのが、天平十七年だった。
「昼飯は終わったか」外の甲板から扉ごしに声がかかる。
「ああ、終わったぞ」
扉が開く、大人の船員が食器を回収し、熱湯の入った桶に入れた。
「司厨見習の猪丸は、うまくやっているか」料理長が尋ねる。
「ああ、手伝ってもらいながら、なんとかやっている。皆からも不満は出ていない」
「そうか、それは良かった。猪丸に伝えてくれ、『今日の昼飯は旨かった』、とな」
「わかったよ。料理長にそう言われると、猪丸が喜ぶだろう」
『夕張』がカリブ海で、ワクチンの元になる天然痘の瘡蓋を入手したことは、すぐにパナマに無線で知らされた。そして、パナマから堺に連絡される。
この時期までには、昼と夜で電波の到達度が異なること、周波数によっても異なることなどが、だんだんわかってきていた。
パナマの早朝、太平洋の大部分が夜間の時に発信する。パナマの送信所が堺を呼び出した。堺の応答があった。
「鉛屋、いるか」片田が鉛屋の店を訪ねた。
「なんだ、片田の『じょん』か、どうした」
「急ですまないが、翡翠の粉砕機と石英石臼を貸してくれないか」
「そりゃあ、当分翡翠粉を作る予定はないって茜丸が言っていたから、かまわんが。どうするんだ」
「パナマに持っていく」
「『ぱなま』って、あの『あめりか』とかいうところのパナマか」
「そうだ」
「そりゃあまた、ずいぶんだな」
「人の命がかかっている。沢山のな。船に載せて、航海しながら翡翠粉を作るつもりだ。なので、ありったけの緑色翡翠も売ってくれ」
「いいぜ、好きなだけ持っていくがいい」
粉砕機と石英製の石臼を載せた輸送船が堺を出発する。船長は、片道で燃料を使い切ってもいいので、なるべく早くパナマに到着するように、と言われていた。パナマ側に石炭の備蓄がある。
そして、蒸気機関を使って航海中に翡翠粉を作った。