千早振る (ちはや ぶる)
安宅丸が大西洋の北緯二十度付近を西に横断する貿易風航路を開拓した。コロンブスより、数か月早かった。
コロンブスの第二回航海は四十日と、前に書いたが、大西洋の東側のカナリア諸島から、ドミニカまではわずかに二十一日だった。
安宅丸も似たような日数で小アンティル諸島にたどり着けたとすると、彼の場合はカーボ・ベルデから出発して、三十日程度でパナマに到達したであろう。
片田が未来から持ってきた地図帳を疑うわけではないが、一度航路が開かれているのと、そうでないのとでは、航海に向かう時の恐怖心に大きな開きがある。
安宅丸が成功したことにより、堺から三隻の船がパナマに向けて送られた。彼女らの目的は、アメリカ大陸大西洋岸の広い範囲に『翡翠の顔料』を普及させることだった。
名前を『夕張』、『こすたりか丸』『ころんびあ丸』という。
『夕張』は砲艦だった。他の二隻は輸送船で、名前は地図帳のパナマ付近の国名から採った。
船腹には大量のワクチンが納められている。茜丸が、これで前回の流行のときに集めた瘡蓋は無くなりました、と言った。
次の流行が来るまで、もうワクチンは作れない、という意味だ。
三隻がパナマの大西洋岸に着くと、ただちに補給して、三方に別れていく。『ころんびあ丸』は南米のカリブ海沿いに東に向かう。これは貿易風と海流に逆らって進むので、あまり遠くまではたどり着けないだろう。
『夕張』と『こすたりか丸』は北上してキューバをかわし、フロリダ半島の先端あたりで別れる。航続距離の短い『夕張』はここから、メキシコ湾(アメリカ湾)に沿って左に一回りしてパナマに戻る。『こすたりか丸』はフロリダ半島の東海岸を北上して、沿岸の村に『翡翠の顔料』を配る。
『こすたりか丸』は、その後、偏西風に乗り、バミューダ諸島周辺のサルガッソ海を避けて、大回りに小アンティル諸島に戻り、パナマに帰る。大航海になるので、乗組員を減らした。
サルガッソ海周辺は無風圏だった。それだけならば、機帆船なので無理やり突っ切ることもできた。ただ、たぶん中心付近には、おびただしい海藻が漂流してるだろう、スクリュー船では危険だ、そう片田が言った。
輸送船二隻にはパウダーモンキーを乗せていないが、『夕張』には子供が乗っていた。旧大陸から離れて一カ月以上経っているので、彼等が天然痘を発症する可能性はほとんどなかったが、念のため、現地人と交易するための要員は、滅菌が済んでいると考えられるパナマ在住の人間にあたらせることにした。
犬丸は『夕張』に米十、金太郎、熊五郎の三人を乗せることにした。
華麗な鳥を肩に乗せている若者が行けば、現地の住人の目を集めるだろう。あとの二人は米十と仲がいいので加えた。
「また、この三人で艦に乗ることになったな」金太郎が言う。
「そうだね」は、米十。
「おう」と熊五郎も言う。三人は『夕張』の上甲板に胡坐をかいている。非番らしい。
米十は手に杖を持っている。身長に近い長さで、上の所に横向きに止まり木が付けられている。長い尾羽根のケツァールが、その止まり木にとまっていた。パナマの案内人が叫んだ『ケツァーリー』から、ケツァーリーという名前にした。
「僕は船に乗れて、ホッとしている」
「なんでだ」
「だって、毎日たくさんの人に覗かれて、手を振って笑顔でこたえなければならないんだ。大変だったよ」
「働かなくとも、いいのだろ」
「働いている方が、気が楽だよ」
「しかし、米十よ。おまえ、そうやって杖に綺麗な鳥を止まらせていると、神武天皇みたいだな」金太郎が言う。
「あ、それ、俺も思った。金の……鳶だったか、なんかそんな鳥だ」熊五郎が相槌をうつ。
「神武天皇かぁ、そんなに偉くないけれどね。鳥がなついているだけだ」
「それが、神代以来の、不思議な事だ、とパナマの案内人がいっていたじゃないか」
「神代か。『千早ぶる 神代もきかず 龍田川 からくれなゐに 水くくるとは』なんて歌があったね」米十が言う。
「それ、誰の歌で、どういう意味なんだ」熊五郎が
「ああ、百人一首の、在原業平の歌だな」金太郎が答える。
「業平とかいう奴が作ったのか、で意味は」
「意味は、それは、あれだ」金太郎の知ったかぶりが始まる。
「なんだ」
「千早ぶる、というから、神代もきかず、とくるだろう。だから龍田川になる。そしてからくれなゐといえば、自然に水くくるとは、になるに決まっているだろう」
「切れ切れに言っただけじゃねぇか。なにが決まっているだ。さては金太郎、おめえも意味がわからねえんだろう」
「そ、そんなことはない。千早やぁ~ぶうるぅ神代むぉお聞かぁずぅ~龍田ぁぁがぁわ」
「歌ってどうするんだよ」
「いや、まて、そうだ」
「どうした」
「熊五郎、お前、龍田川ってなんだか知っているか」
「知らねえが、おおかたどこかの川の名前だろう」
「そうだろう、普通そう思うだろうが、聞いて驚くな。龍田川は相撲取りの名前だ」
「相撲取りの名前だったのか」熊五郎が感心する。
「そうだ、相撲取りの名前が、龍田川だ」
「で」
「で、うーん。で、その龍田川が千早という遊女に惚れたんだが、これが振られる。それで『千早振る』だ」
「神代は、なんだ」
「神代は、つまり、その、千早の妹だ。姉に似ているので、龍田川が次に迫った。ただ、姉さんが嫌だというのなら、『あちき』もいやよ、とこれも龍田川の言うことを聞かない。それで『神代も聞かず』となる」
「なぁるほどなぁ」熊五郎がうなる。
「もうすこしだ、がんばれ」と米十が応援する。
「『からくれない』とは、そうだな、そうだな、そうだ」
「どうした」
「失恋した龍田川は失意のうちに引退し、親の豆腐屋の稼業を継ぐことになった」
「豆腐屋かい」
「数年が経ったころ、なんの因果か、落ちぶれた遊女の千早が、偶然、龍田川の豆腐屋にたどりつき、豆腐を作ったあとの『おから』でいいから恵んで欲しい、と言った」
「『から』が出て来たな、それからどうする」熊五郎と米十が声をあわせる。
「龍田川は、おまえに振られたので、相撲取りを引退したんだ、と言う。ぜんぶ、おまえのせいだ。だから『おから』一粒たりと、やるわけにはいかない。で、『からくれなゐ』となる」
「考えたなぁ」
「そして、龍田川が千早をドンッ突き飛ばす。もと相撲取りだったので、たまったものではない。思わず千早が豆腐屋の脇にあった井戸に倒れ込む。豆腐屋なので、当然井戸がある」
「あぶないぞ」
「千早が井戸に落ちたので、水に潜る、だ。なので、『みずくくる』、だ。どうでぇ」
「とうとう、最後までいっちゃったね」と米十。
「いや、最後じゃないぞ。最後に『とは』がついているだろう。『とは』はなんだ」熊五郎が追及する。
「『とは』かぁ、『とは』、『とは』、困ったな、二文字じゃあ、なにも思いつかん」
「どうした」
「『とは』だよな。『とは』、『とは』。……そうだ、わかったぞ」
「なんだ」
「『とは』は、千早の本名だ。だから、水に潜る『とは』、になる」
「やりとげたね」そう言って米十が腹を抱えて笑う。杖が揺れ、ケツァーリーが飛び立って、舷側に移った。
本当は、片田達の時代に四股名を持った専業の相撲取りはいなかったようです。
元ネタは古典落語の『千早振る』ですが、さらに元ネタをたどると、大河ドラマの主人公蔦屋重三郎に縁のある山東京伝作の滑稽小説『百人一首和歌始衣抄』だそうです。
早稲田大学や国書データベースなどに画像が掲載されていますが、達筆すぎて、『千早』、『角力とり』、『神代』『とうふ』くらいしか読み取れませんでした。