ナビター砦
クリストファー・コロンブスが船尾楼に上がって、周囲の大船団を見回す。彼の座乗するサンタマリア号を筆頭に十七隻の船団だった。二千人の船員乗客がいた。スペインが海外に派遣した移民船団としては、史上最大だった。
一四九三年九月二十五日にカディスを出発する。途中カナリア諸島に補給で立ち寄り、十月十三日にここを発つ。
二十日が過ぎた。安定した季節風に乗り、無事な航海だった。コロンブスの第二回航海である。
今回の船団の旗艦はサンタマリアというが、第一回航海の旗艦のサンタマリアとは別の船である。前回のサンタマリアは、航海の途中でサンゴ礁に座礁し、放棄されている。
座礁したのは、現在ハイチ、ドミニカ共和国の二国があるエスパニョーラ島の北岸である。ハイチの北東部、カパイシアンとカラコルの間のサンゴ礁に接触した。
一四九二年十二月二十五の深夜のことだった。
座礁した初代サンタマリアは放棄されることになる。問題になるのは船員をどうするかであった。第一回の航海は三隻の船で行われ、サンタマリアは最大の船だった。
この時の乗組員は九十名程、サンタマリアにはその半数に近い三十九名が乗船していた。残った二隻に全て乗船させるわけにはいかなかった。
人が増えれば、飲み水も食料も載せなければいけない。カリブ海から緯度を上げて、偏西風に乗ってアゾレス諸島、そしてスペインにたどり着くまで何日かかるかわからない。未知の航路だった。
そこで、サンタマリア号に乗っていた三十九名をイスパニョーラ島に残すことにして、砦を建設することにした。
現地のタイノ族の王、グァカナガリ王は友好的だった。サンタマリアから荷物や船材を陸揚げするのを手伝い、倉庫に使用する家を貸した。
インディオと呼ばれた住人が運搬を手伝うが、盗まれたものは一つとしてなかったと記録されている。
材料はサンタマリア号の木材を使用することにして、十日程で、地下室と堀のある砦が出来上がる。『ナビター砦』と名付けられた。十二月二十五日、クリスマスの日に座礁したからだ。ナビターと『(キリストの)降誕』を意味するという。
コロンブスは船隊の憲兵隊長であったディエゴ・デ・アラーナを入植者のリーダーに指名し、スペインに帰った。
ディエゴは、コロンブスの愛人、ベアトリスの従兄弟だったので、最も信頼できると考えたのだろう。
それから、一年弱が過ぎた。
“私は帰ってきたぞ”コロンブスはそう心の中で思った。周囲を見渡せば、この大船団だ。そして、彼が前を向く。
船首の先の、南国の空には勇壮な雲が立ち上っている。その下に島があることを示していた。鳥たちが、その雲に向かって飛んで行く。
“あと、一日か二日で、カリブ海に浮かぶ諸島のどれかにたどり着くに違いない”第一回航海より南に針路をとったのは正解だった。
第一回航海の往路は七十日、それに対して今回は四十日程でインディオの地に到達する。
最初にたどり着いた島は、ドミニカ島だった。そこから『小アンティル諸島』を北に辿り、西に折れてディエゴ・デ・アラーナ達を残してきたイスパニョーラ島に到着する。
夜だった。座礁しないように湾の外に停泊し、大砲を打ち砦に合図する。マストにランプも下げさせた。
深夜になりインディオを多数乗せたカヌーがやってくる。口々に「提督っ」と叫んでいた。前回訪問時に、彼等は『提督』という言葉を覚えていた。
コロンブスの姿を見つけたインディオがグァカナガリ王からの贈り物を手渡す。ずいぶんと大量の贈り物だった。
「ナビター砦の我々の仲間の様子はどうだ」コロンブスが尋ねる。
「ナビダーのスペイン人は無事だ、二、三人死んだけれども」そうインディオが答える。
通訳のディエゴ・コロンが翻訳した。ディエゴは第一回の時にコロンブスに従ってスペインに行ったインディオだ。
ディエゴが問い詰めると、インディオたちが本当のことを話しだす。
ナビダーのスペイン人達はすべて死んだ。しかたなかったんだ。
提督が去ったあと、隊長のディエゴ・デ・アラーナとその仲間十人程は、提督のいいつけを守って、砦でおとなしく暮らしていた。
しかし、グティエレス達、残りのスペイン人が島の中をあるきまわり、黄金や女達を強奪していった。
グティエレス達は内陸の王、カオナボの領地にまで侵入して略奪を重ねた。カオナボはグァカナガリ程寛容ではなかった。
カオナボはグティエレスの略奪隊を包囲して、これを全滅させた。そのあと海岸に出て来てナビター砦を攻撃した。
グァカナガリはカオナボをなだめようとしたが、無駄だった。
ナビター砦には十名程しか残っていなかったので、なす術もなかった。砦には火がつけられ炎上した。
カオナボは、密林や藪に逃げたスペイン人も全て殺してしまった。
インディオが、コロンブス不在の間に起きたことを、このように説明した。
「なんてことを、してくれたんだ。なんて、ことを」コロンブスが怒りに震えた。
第一回航海で、コロンブスは現地人との友好関係を築くことに配慮していた。
贈り物に対しては、贈り物で返した。彼らが嫌がることをしないようにした。略奪を禁止した。
コロンブスはイタリアのジェノバ出身だった。イスラムのような異文化との交易を知り、ルネサンスの雰囲気の中で育ってきた。現地人が衣服もまとわないような野蛮人であっても、優しく接して、主の御許に導けば、よい労働力になるであろう。
そのように考えていた。
それに対して、レコンキスタのスペイン人は乱暴だった。去年までイベリア半島のイスラム王朝と戦争をしていたのだから、心が荒れている。
無理もない事だが、自らと異なるものは排除する、としか考えない。殺してしまうか、奴隷にするか、どちらかだ。
スペイン人で、キリスト布教派遣団の団長、ブイル神父が罵るように言った。
「見せしめにグァカナガリ王を殺すべきだ」
スペイン人は、神父ですらこの有様だ。そう思ったコロンブスはスペイン人に対する憎しみすら感じた。
クリストファーは、神父の提案を退けた。