大丈夫だ (だいじょうぶ だ)
「わぁあ、これが船の上か」上甲板に登ったベンヤミンが言った。
「兄ちゃん、あれ、見てみろ。帆柱が高いなぁ」これはサイラス。
「あ、上の方に籠みたいなのがあるぞ。あそこまで人が登っていくのかな」
「あそこから下を見たら、怖いだろうね」
彼らが育ったジェルバ島は平坦な島だった。山や丘などの高地がない。高い所から見下ろす、などと言う経験はほとんどなかった。あるとすれば、港の脇に建つ要塞の城壁から見下ろすくらいだろう。
英語が出来る通訳、ヤコブ・シャハムと少し英語ができる日本人、菅浦の藤次郎が二人の後から上甲板にあがってきた。
ヤコブはポルトガル沖で救出されてから、ジェルバ島まで『加古』に乗ってきているので、あるていど船内の勝手がわかる。
「まず、上甲板の上に座れ」ヤコブが二人に言った。四人が胡坐をかいて座った。
「今は停泊しているから船は動かないが、海に出ると揺れる。船の中で移動するときは、体の確保が必要だ。両手で周囲の手摺などを使って確保すること」
「わかったよ」
「私は、英語が出来るということで、しかたなく、この船に一年間だけ乗ることになった」ヤコブが続ける。
「しかたなくって、どういうこと」
「私には結婚したばかりの妻がいる。二人でポルトガルから島にたどり着いた。だが妻を島に残して船に乗らなければならなくなった」
「奥さんがいるのか」
「なのに、なんで船に乗るんだ」
「お前たちのせいだ」
「おれたち」ベンヤミンとサイラスが言った。
「お前たちが日本語を理解するようになるまで、通訳が必要だからだ」
「あぁ、そういうことか、それは、ゴメン、ゴメン」
「まったくだ。ジェルバ島のラビ、それと、命の恩人の村上殿が頼むので、しかたなく一年だけ船に乗ることにした。もちろん、私の安息日とカシュルートは保証してくれる」
カシュルートとは、ユダヤ教の食物禁忌のことだ。イカやタコを食べない、というあれのことだ。
「まず、出港前に、どうしても覚えておかなければならない日本語を教えておく。いつも私が側にいられるとは、限らないからな」
「わかりました、おねがいします」サイラスがちょっと真剣な目で言う。
ヤコブは、ジェルバ島までの航海中、少しの日本語を覚えている。
「トマレ、ヤメロ、アブナイだ。これを日本人がお前たちに言う時は注意しろ」
「どういう意味」
「トマレ、はその場で止まれ、という意味だ。普通はお前たちが、そのまま移動すれば危険だ、ということを示している」
「トマレ、トマレ」
「トマレ」
「そうだ、ヤメロは、その時お前たちがしている行為を、止めろ、と言っている」
「ヤメロ」
「アブナイ、は危ない、という意味で、お前たちが危険な状態か、危険な行為をしている、という意味だ。上から物や人が落ちてくることもある。これを言われたら、周囲を見回したり、自分のやっていることを止めたりした方がいい」
「トマレ、ヤメロ、アブナイだね」
「そうだ、これは今、この場で覚えろ。船の中は危険がいっぱいだ」
「覚えたよ」
「次は、お前たちが話すほうの言葉だ。病やケガについてだ」
そういって、ヤコブがアタマ、ウデ、ムネ、ハラ、アシなどを指さして教える。次いでイタイ、ヘンダ、クルシイなどの言葉を教える。
これだけ覚えていれば、具合の悪くなった時、船内の医者に自分の状態を説明できる。
「喉が渇いたときは、ノドガカワイタ、腹が減ったときは、ハラガヘッタ、だ」
「ハラは、腹のハラか」
「そうだ」
「あまりいっぺんにおぼえられないだろう。今のところは、あと一つだ」
「そうしてくれると、ありがたいよ、止まれ、止めろ、危ない」
「最後の言葉は、便利な言葉らしいのだが、注意しなければならない言葉でもある」
「便利な言葉、どんな」
「ダイジョウブダ、と言う言葉だ。これは私も、まだよく意味が分かっていないのだが、非常に多くの場合で使われる」
室町時代に“大丈夫だ”と言う言葉を、現代の意味で使うことはない。当時の『大丈夫』は『立派な男子』という意味だ。筆者はそれを知っているが、面白いので続ける。
「例えば、この人は、信用できる人か、と聞かれた時、ダイジョウブダ、と言えば、信頼できる人だ、ということになる」
「うんうん」
「どこか、具合が悪いのか、に対してダイジョウブダ、といえば、具合は悪くない、という意味だ」
「ちょっと、待って、肯定(yes)しているんじゃないのか」
「そこが、よくわからないところだ。他にも、これは食べられるのか、と聞いた時に、ダイジョウブダ、は食べられるという意味になる」
「それは、わかるよ」
「ところが、お茶を飲むか、に対してダイジョウブダ、は飲まないという意味だ」
「うぁお、どういうことだ、ダイジョウブダって」
「二者択一のような問いに対して、日本人の考える、『良かれ』と思う方を選択しているように思える。が、混乱するだろうから、これくらいでやめておく。日本人はこれを頻繁に使う。よほど便利なのだろう」
「なので、この言葉を聞いた時には、よく考えた方がいい。わかったか」
「大丈夫だ」二人が答えた。