船の模型
暑さがまだ残る頃、ふうは犬丸と土木丸を連れて、事前測量を始めた。義就の警備兵が五名程ついている。
まず、大乗川源流が石川とぶつかるところを基準点とし、そこに長方形に切った岩を半ばまで埋める。ここから、堺まで、この岩の上面に刻まれた十字からの方角と距離、そして高度差を測っていく。
今回は、実現可能性と、おおよその予算組み立てのための調査なので、それほど厳密ではない。実際の建設前におこなう測量のときには、別途計測器具を工夫しなければならないだろう。
草木に露が降りてくる頃に、ふうは堺までの簡易測量を終え、片田の商店に入った。
「陵のところから、『じょん』が言うより西に回り込んだ方が、水道橋を小さくできると思う。ずいぶん工事費がすくなくできると思うわ」ふうが言った。
「そうか、それは助かるが、曲率は、船がすれ違い出来る範囲にしてほしい」
「わかってる。全体に、最初に思った程むずかしくはなさそう。石川の堰は河道を付けたとしても来年中にはできるわ。それと大乗川と陵の間の堀も並行して作れる。来年はそこまでね」
「次の年は、陵まわりの堤を高くするんだけど、これは人数しだいね。ここで二間ほど水位を稼がないとね。でもあまり高くすると、大乗川との間の堀にも堤を作らなければならなくなるから、二間ぐらいが限界だわ」
「そして、さっき言ったように西に回り込んだ水道橋を作るのに、うーんシラスと石灰岩がスムーズに来たとして、一年、二年かな。亀の瀬あたりで石を切って、船で陵まで運べるから、案外はかどると思うの」
「そこから先は、まっすぐ堺まで堀をほればいいだけだけど、ところどころ、小川が流れていて低くなっているから、そこも小さい橋が必要ね。二、三年かな。もちろん人手がたくさんあれば短くできるけど」
「わかった。ご苦労だった。村に帰って、工程表を作ってほしい。それと労務と材料の概算見積も頼む」
工程表の作成などは、とびの村の水路を作るときに、作り方を教えていた。規模が大きいだけだ。
片田は博多に商店を置くことにした。堺の商店に勤めていた者のうち、若狭屋の四郎と五郎の兄弟を博多に派遣した。四郎は管理が得意で、五郎は営業が向いていた。
片田は五郎に、大陸に向けて硫安を売り込むことを指示した。
明人が眼鏡をつくれるようになった。これは残念であったが、特許権も知的財産権もない時代なので、しかたない。ましてこの時代の中国といえば、実学が発展した文化大国である。
次の商品を打ち出していかなければならない。
五郎は博多周辺の、特に外国人が畑作をしているようなところを回って硫安を試用してもらっていた。これらの畑は、日本ではあまり栽培されない、タマネギ、ハクサイ、ニンニクなど中国料理や朝鮮料理に使う野菜を作っていた。彼らの間で評判が出れば、本国に輸入しようと考えるものも出てくるであろう。即効性の見えない、売りにくい商品であるため、気長にやるしかない。
五郎の役目は他にもあった。石炭、石灰石、シラスの採掘奨励である。石灰石とシラスは、まだ需要が少ないので、石炭に注力させ、片田村への出荷を増やした。
石炭は、米と同様に俵にして運搬するのだが、塩魚しか載せられないような古い船でもかまわなかったので、魚の相場が下がった時のように、塩魚船が空いているときに便利な荷物であった。
ふうから上がってきた工程表、工数、必要材料の種類と量、運河全体の設計図などをまとめて目論見書とし、畠山義就に見せた。
目論見書の最後には、現時点での労賃や資材の相場で計算した場合の合計金額も記入しておいた。
義就は二つの意味で、うなった。ひとつは高額だということだ。もうひとつは、このように詳細な普請の目論見書を見たことがない、という驚きだった。
「これを、あの、ふうとかいう小娘が作ったのか」
資金に不足があるのであれば私も出資したい、と片田が申し入れた。義就が申し入れに乗った。しめた、と片田が思った。これで運河に対する一定の利権を主張できる。
「では、一番難工事となるであろう水道橋のところは、私の資金で建設することにいたします」
「労務者はどうするのじゃ」
「伊予守さまの方で、ご用意できるのであれば、その者たちを使います。それで不足するようであれば、私どもの村の者を呼んでまいります」
来年の春から工事が開始されることになった。
片田の作っていた船の模型が大黒屋惣兵衛さんに見つかった。
「そのような、おもちゃで遊んでおらんで、もっと商いに身を入れてください」片田は叱られた。
片田は遊んでいるつもりではなかった。
日本の和船は丸木舟から発達した。丸木舟の両側面に板を取り付けて舷側をかさ上げして排水量を増やしている。のちには、丸木舟のところを取り払い、底も板張りにする。
それに対して、西洋の船は異なる作り方をしている。子供の頃の少年雑誌などのつたない記憶によると、まず、船の底に縦に一本、真っすぐの木を置く。これを竜骨という。竜骨の上に、船首側には船首材、船尾側には船尾肋板というものを立てる。そして、これを囲むようにストレーキという長い板を張り上げていく。ストレーキの内側には、それとは直角に肋材という曲がった板を置き、内部からストレーキを補強する。肋材はちょうど人間の肋骨のように見える。このようにすることで、西洋の船は、和船より高い強度を持つことができた。
それを再現しようとしていたのだった。片田が作りたい、あるものを実現するには、強度のある船が必要だった。
まあ、おおよそ出来たので、あとはこれをとびの村の石英丸に送って、村の子供のだれかに研究させよう。




