パロ・デ・コヴィリャン
「商人仲間から、インドでは蜂蜜は安い、と聞いていた。なので、わしはアデンで三分の一程残っていた蜂蜜樽をすべて売って、別の商品を持つことにした、乳香、没薬、金、象牙などだ。コーヒーも少し仕入れた」
「コーヒーですか」
「温かい飲み物だ。これを飲むと眠くならない。それはともかくとして、最初四〇〇クルサードだった持参金が、商売をするたびに増えていく。途中で宿代や飲食費を払うのだが、その数倍の勢いで持参金と商品が増えていくことに驚いた。商人達が命がけで交易をする理由がよく分かった」
インド洋での季節風を利用した航海を整理した有名な航海士がいる。イブン・マージドという十五世紀のアラブ人だ。彼が言うには、アラビア半島のアデンからインドの海岸に行くのに適している時期は、春と夏の終わりだという。夏の終わりの時期をダマニ(Damani)と呼んでいる。
八月半ばから九月半ばまでの季節を言う。特に八月二十九日前後に出港するのが良いとされる。順調に行けば九月十八日くらいにインドに到着する、という。
「というわけで、ダウ船の中で、心細い三週間をすごして、インドの南西岸のカレクーという港に着いた」
現在のコーリコード、少し前にはカリカットと呼ばれていた。このあたりの港は、インド洋の東側のベンガル湾の交易路と、西側のアラビア海の交易路の交差点になる。
中国人、東南アジア人、インド人、アラブ人、アフリカ人などが集まり、お互いの商品を取引していた。
同じような形をしているのに、なぜ西がアラビア『海』で、東がベンガル『湾』と言うのかと聞かれても困る。
「驚いたことに、ユダヤ人もいた」
「カレクーの南のコーチンには大きなユダヤ人の町もあるそうです」
「うむ。このカレクーには洋の東西の様々な品が集まるが、その価格を調べた。あらゆる贅沢品が集まっていた。わしはカイロでもアデンでも豊かさに驚いたが、それ以上のカレクーの繁栄ぶりに驚かされた」
「コショウのヨーロッパとの価格差にも驚かれたのではないですか」
「もちろんだ。三十倍の価格差があった。しかし、わしはコショウの運ばれる路が、どれほど苦難に満ちているかを、この身で体験している。無理もないと思った」
「さようですか」
「しかし、今はポルトガルからカレクーまで直接船で行けるようになったのであろう」
「はい、ポルトガルでは、コショウの価格が四分の一になりました」
「そうか」
「それから、インドの西岸に沿って北上した」
「ゴアにも行かれましたか」
「もちろん、行った」
「ゴアには、現在ポルトガルの総督府があります」
「ゴアのあとは、ペルシャ湾の入口のオルムズ(ホルムズ)に寄って、ゼイラの港に着いた。アフォンソが上陸してエチオピアを目指した港だ」
「アフォンソの消息はありましたか」
「なかった。わしはそれからアフリカの東海岸に沿って南下した」
「インドに海から行けることが分かったので、残りはアフリカの南端が大西洋に接しているかどうか、ということになったのですね」
「そのとおりだ」
「イスラムのダウに乗って、マリンディ、モンパサ、モザンビクとたどり、ソファラまで南下した」
「ソファラまでですか」
「そこから先に行くイスラムの船が無かったのだ」
「なんででしょう」
「ソファラより先には大きな港がなく、航海しても利益が期待できないのだそうだ」
「あのあたりは、風も良くありませんしね」
「それで、ソファラでムスリムの航海士に緯度を尋ねたら、南緯二十度であった」
「南緯二十度ということであれば、ディオゴ・カンとマルティン・ベハイムが一九八五年にたどり着いたナミビアのケープ・クロスと同じくらいの緯度ですね」
「そうだ、そのことはわしも知っていた。わしがポルトガルを出発したのは一四八七年だったからな。アフリカの南端には至らなかったが、このまま行けば、大西洋に出られるのではないか、と判断した」
「アフリカの最南端は、南緯三十四度四十五分です」
「そうであったか」
「先に行く船がないのでは、しかたがない。なので、わしはカイロに戻った。そこでアフォンソと落ち合ってポルトガルに帰ろうと考えていた」
「アフォンソが待っていましたか」
「ふたたびカイロに着いたのは一四九一年の初めだ。カイロでは、以前泊まった宿屋に投宿した。そこで待ち合わせる予定だったからだ。だが、宿の主人が言うには、アフォンソはカイロに戻って来て、この宿屋で病死したという」
「なにか、遺品を残していましたか」
「それが、短剣がひとつだけだった。確かに彼の物だった」
「エチオピアに着いたのか、そこでの同盟の打診については」
「手帳一つも残されていなかった」
「それは残念でしたね」
「これからどうしようか、途方に暮れていた時に、二人のポルトガル人が、わしのところに来た」
「なんで、あなただとわかったのでしょう」
「本名で泊まっていたからな。イスラムは商人がポルトガルのキリスト教徒でも気にしなかった」
この時、カイロのパロ・デ・コヴィリャンを訪ねてきたのは、ユダヤ教のラビ、アブラハムと靴職人のヨセフであった。二人はジョアン二世の手紙を携えていた。
曰く、任務を完了したのであれば、早急に帰国するように、もしまだなのであれば、これまでの成果をヨセフに託し、任務を継続せよ。
特に、プレスター・ジョンの居所を自身で確認するまでは帰って来てはならぬ。
パロは頭をかかえた。数日考えたあと、王命のとおりにプレスター・ジョンの国を訪ねることにする。
そこで、これまでのこと、辿った経路、インドの商品価格、商法、風俗などを書面に記し、ヨセフに託し、プレスター・ジョンの国に向かった。
この時、パロがヨセフに託した手紙がポルトガルのジョアン二世の元に届けられたのかどうか、ヨーロッパの歴史学者のなかでも意見が分かれているそうだ。
届いた、とする学者は、この情報があったので、ヴァスコ・ダ・ガマがアフリカからインドにたどり着けたのだと考える。
届いていなかった、とする学者たちは、パロの情報があれば、ガマがインドであれ程まごつくことはなかったであろうと主張する。
「ヨセフに託した手紙はポルトガルに届いたのでしょうか」
「さて、私は、ただの宣教師ですから、そのような機密にふれるような立場ではありません。届いたかどうか、存じませんな」
確かにフランシスコの言う通りだろう。ヨセフに託された情報は、特級の国家機密だったに違いない。
「そして、エチオピアに入られたのですか」
「いや、王の手紙にはラビのアブラハムをホルムズまで連れていけ、とあった。なので彼をホルムズまで届けたあとに、ジェッダに行った」
「ジェッダというと、紅海のジェッダですか。メッカ近くの」
「そうだ」
「なぜですか」
「これまでの旅で、私はイスラムの先進性に魅せられていた。イスラムの社会に比べたらポルトガルもスペインもはるかに劣っている。なにが、その先進性を引き出しているのか知りたくなった」
「イスラム教徒に改宗なさったのですか」
「さすがに、そこまではしなかった、しかしメッカに巡礼にいけば、イスラムの秘密が分かるのではないかと考えたのだ」
「どうでしたか」
「神殿に入り、カアバという黒い石の周りを七回まわったが、なぜイスラムがこれほど進歩的なのかは、わからなかった」
「そうですか。あの神殿に入ったキリスト教徒は、あなたが初めてかもしれませんな」
「そうかもしれぬ。とりあえず、行けるところまでは行ったと、覚悟は決まった」
「エチオピア行の覚悟ですか」
「そうだ。一四九三年になっていた」
「七年目になりますね」
「砂漠や山を越えて奥地にはいり、ついにこの王都にたどりついた」
「お一人で、ここまで来るのは並大抵のことではなかったでしょう」
「そのとおりだ。それだからこそ、この国はイスラムに囲まれていても宗教を守ってこれたのであろう」
「歓迎されましたか」
「された。王はとてもよろこんでおられた。山の中の国だ、外の情報に飢えていたのであろう」
「そうですか」
「わしはすでに、多くの国を知り、数か国語を話すことができた。なので彼らはわしを手放したくなかった」
「それで、留め置かれたのですか」
「そうだ、様々な称号を受けた。屋敷も与えられた。そして、長いこと断っていたのだが、王に薦められて妻を娶った。子供も生まれる。もうこの国を離れることはできなくなっていた」
「異端とはいえ、おなじキリスト教徒ですから、そのようなこともあるでしょう」宣教師が同意した。
このパロ・デ・コヴィリャンの冒険は、ほぼ実話に基づいている。パロは実在の人物である。
ポルトガルのリスボン、テージョ川の河口に『発見のモニュメント』という記念碑がある。世界史の教科書などに載っていることが多いので、日本人ならば、大体知っているだろう。
南に向いたエンリケ航海王子を先頭とした、ポルトガルの大航海時代に活躍した人々の群像が刻まれている。
西側の航海王子から数えて九番目にパロの像が置かれている。インドに到着したヴァスコ・ダ・ガマは東の三番目、等角航法を発明した数学者、ペドロ・ヌネスは西の六番目だ。ヌネスはアストロラーベの副尺も発明している。測定器ノギスの語源になった人物だ。
喜望峰にたどり着いたバーソロミュー・ディアスは東の十一番目、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは東の十五番目にいる。
航海王子が先頭にいるのだから、前の方が、序列が高いと見ることも出来る。
ポルトガル人にとっては、ディアスやザビエルより、パロ・デ・コヴィリャンの方が格上なのかもしれない。




