大蔵卿 (Load High Treasurer)
「今日は朝から西風だ、今日もおぬしの船は到着できないかもしれん」ヘンリー王が窓から身を乗り出し、宮殿の尖塔にたなびく、赤と白の旗旒を見ながら言った。
船の到着が待ち遠しいようだ。
グリニッジ宮殿の東に面した三階の部屋にいる。窓から左手を見るとテムズ川が見える。川の向こうは広い湿地になっていた。
対岸の湿地は、蛇行するテムズ川に囲まれている。現在ではアイルオブドッグスと呼ばれている。あえて日本語に訳すと『犬ヶ島』だ。
グーグルクロームで、英語版Wikiの『Isle of Dogs』を検索し、日本語翻訳させると、ちゃんと『犬ヶ島』と訳してくれる。
造船ドック(dock)がたくさんあるから、そう呼ぶのではない。
この湿地は、ヘンリーや安宅丸がいる時代には、サンダース・ネスと呼ばれていた。アイルオブドッグスはサンダース・ネスの南西にあった小さな島のことだった。
ネスの『nesse』=ness は、海や川に突き出た土地の先端という意味だそうだ。現代の英語では、ほとんど使われていない。
なぜ、サンダース・ネス全体が『犬ヶ島』になってしまったのか、それはよくわからない。
サンダース・ネスの名前は、南東部に走る道の名前としてのみ、残っている。
グリニッジ宮殿のある側も、少し東のところで突出している。そちらはリー・ネスと呼ばれていた。
安宅丸がテムズ川を見る。リー・ネスの向こう側に黒い煙が見えた。
「そうでもなさそうですよ、あれをご覧ください」十日も宮殿にいたのだ。安宅丸も、簡単な英語ならば、聞いて話すことが出来るようになっていた。
ヘンリーが安宅丸の指す方向を見る。
「おぬしが言うところの、蒸気機関の煙か」
「おそらくそうでしょう」
彼らが見守るなか、機帆船『川内』がリー・ネスを回り込み、テムズ川のブラックウォール・リーチと呼ばれる部分に姿を現す。
両舷の特徴的な外輪が見えた。間違いなく『川内』だ。
同じ部屋で幼いヘンリーと積木遊びをしていたシンガも窓際に寄って来る。
「なんか、知らない小舟を曳航してきているね、なんだろう」
「あれは、わが国の水先案内船だ。西風では川上に登れないので、曳航してきたのだろう。本当に、風上に航行できるのじゃな」ヘンリーが言った。
宮殿のテムズ川に面した北側に人々が出てくる。王と安宅丸がテムズ川に伸びた木製の埠頭に立つ。
『川内』が埠頭に着岸し、踏板を埠頭に渡した。安宅丸が先導し、ヘンリー七世が少数の兵と共に乗艦する。
艦内では、ヘンリーが砲列甲板に感嘆し、蒸気機関に驚嘆するが、繰り返しになりそうなので、割愛する。
王と安宅丸が上甲板から船尾楼にあがってきた。
「では、実際に風上に向かって航行してみましょう」
王が見ている目の前で左右の外輪が回転を始める。
『川内』が離岸し、北に向かうテムズ川に沿って右旋回する。左から風を受けてライムハウス・レーンを進む。
ライムハウス村のところで左旋回、真西に向いた。
ヘンリー王が正面からの風を顔に受ける。
「本当に風上に向かって進んでおる」
次の蛇行部でわずかに右旋回すると、正面にロンドン橋が見えた。右岸にロンドン塔とシティの城壁も見える。
ロンドン塔を囲む城壁を過ぎると、すぐにシティの城壁が続く。ロンドン橋がすぐ目の前になる。
「下から見上げると、もっとすごいな」シンガが言った。橋の上にびっしりと三、四階建ての商店が並んでいる。よく橋が落ちないもんだ。
テムズの水先案内人が、それ以上近づくなと注意する。『川内』が止まった。ヘンリー王が、どうするんだ、と見ていると、船体内部から鈍い金属音が聞こえる。
左右の外輪が逆方向に回りだした。『川内』が、その場で旋回を始め、たちまち船首を下流に向けた。
風上に進める、機敏に旋回できる、これがどれほど海戦に有利か、ヘンリーが思った。
この時代の帆船は風だけが頼りだ。その帆船と機帆船が、もし戦うとしたら、機帆船が圧勝するであろう。容易に風上側に回り、近寄ることのできない敵艦を風上側から自由に旋回して圧倒することができる。
グリニッジに帰るのか、と見た時に、左後方から声が聞こえた。城壁とロンドン橋が繋がるところ、ニュー・ストーン・ゲートから、小舟がこちらに向かって来る。
ジョン・ダイナム大蔵卿が小舟で立ち上がり、こっちにむかって叫んでいた。
『川内』が縄梯子を降ろす。ジョンがそれを伝って上甲板にあがってきた。
「王、いかがでしたか」
「大蔵卿、これは素晴らしい船だぞ」




