謁見 (えっけん)
昼食を終えた安宅丸達がグリニッジ宮殿に向かう。グリニッジはテムズ川を挟んでロンドンとは反対側にある。蛇行するテムズ川を少し下ったところだ。
橋の北側、ニュー・ストーン・ゲートから、シティの城壁の外に出る。
橋を見たシンガが叫ぶ。
「わぁ、まっすぐな橋の両側にいっぱい店が並んでいる」
シンガが言った通り、橋の両側にはびっしりと店が並んでいた。現代人ならばフィレンツェのヴェッキオ橋の巨大版のような橋だ、と思うだろう。
ヴェッキオ橋は三十メートル程の長さしかないが、ロンドン橋は二百八十メートル以上もの長さがある。
中央部の『跳ね橋』の所だけは店が無かったが、それ以外は両側一杯に店が並んでいるのである。
三階建て、四階建ての高さがある店舗が百程も橋の上に建っている。
店舗から支払われる地代を橋の修理費にあてるために、このようになっているそうだ。
ロンドン橋、というと『ロンドン橋落ちた』の歌が有名なので、年中落橋していたような印象がある。そんなところに店舗兼住宅を密集させて、大丈夫なのか、そう思うだろう。
しかし、この時安宅丸達が馬車で渡った、オールド・ロンドン・ブリッジは一二〇九年に花崗岩で建設されて以来、一八三一年に役目を終えるまで六百年以上、落橋したことはなそうだ。
現代のロンドン橋は、オールド・ロンドン・ブリッジの二代後の橋になる。鉄とコンクリートで出来たサッパリとした橋で、観光客は見過ごしてしまうかもしれない。
もしかすると、少し下流にある一八九四年に建設されたタワーブリッジが、ロンドン橋だと思い込むかもしれない。
中央の『跳ね橋』のところで、馬車が上下する。この跳ね橋の役割は二つ。一つは橋より上流に帆船を通すこと、もう一つは敵が攻めてきたとき、跳ね橋を上げて通れないようにすることだ。
ロンドンはテムズ川河口から六十キロメートル程も遡ったところにあるが、帆船によるロンドンまでの水運が必須だったため、この時代のテムズ川にはロンドン橋から河口まで、橋が無い。
橋を渡り切ってストーン・ゲートウェイを過ぎて左折すると、すぐに田園地帯に入る。
グリニッジ宮殿の『謁見の間』。
この時代でも宮殿や教会など、ほんの一部の建物ではガラス窓があった。その窓越しに見える落葉樹の葉は、すべて落ちていた。
晩秋の日が西の地平に近づく。吹き抜ける風は収穫の匂いがした。
「オルダニー島租借の件と、ガラス工場のことは、わかった。しかし、その方達の狙いがわからぬ」
イングランド国王、ヘンリー七世が言った。ヘンリー七世は、税金王として知られていて、イギリス人の評判はあまり良くない。
安宅丸が見たヘンリー七世は学者のような風貌をしていた。おだやかな人物で、冗談を言うこともあるが、全体的に思慮深い。
「恐れ多いのですが、どのような意味でしょうか」安宅丸が尋ねる。
「わが国にとって、よいことばかりだからだ。そちらにとっての利点がわからぬ。何を狙っておる」
「まず、貴国が今より豊かになってほしいのです」
「イングランドが豊かになって、どうしたい」
「まだ、先の話ですが、可能ならば同盟を結びたいのです」
ジョン・ダイナム大蔵卿がヒヤリとする。これは打ち合わせには入っていなかった。
シンガは『同盟』という言葉に alliance を使った。
同盟の英語には、alliance や union があるが、alliance は一時的、または特定の目的のために結ばれる同盟で、構成国は一定の独立性を保つ。
それに対して、union はより強固かつ永続性のある結合を指し、alliance より強固な言葉だといえる。
なので、軍事同盟は military alliance であり、関税同盟は customs union である。
欧州連合(EU)は European Union と言う。EUは通貨を統合し、域内国境の通過を自由にし、関税を廃止している。
「何に対する同盟を考えている」ヘンリーが問う。
「私たちは、東の海、西の海で平和に交易を行っています」
「うむ」
「そこにスペインやポルトガルが入って来て荒らされるのは困るのです」
「スペイン、ポルトガルを牽制しろ、というのか」ヘンリーはスペインが西の海で新大陸を発見したということを知っている。ポルトガルがアフリカの南端にたどり着いたこともだ。ポルトガルが海路でインドにたどり着くのは時間の問題だった。
そこで、彼らがどのようなことをしでかすのか。ヘンリーは容易に想像ができる。なにしろ七百年のレコンキスタを戦ってきた二国である
イングランドも十字軍に参加していた。
「今、それを求めているのではありません。将来のことです」
「わしが、息子のアーサーのために、スペインの王女を迎えようとしているのを、知っておるのか」
「大蔵卿から、聞き及んでおります」
ヘンリーが大蔵卿の方を見る。ジョンは予定外の話になって困っている、といいたげな顔だった。
「まあ、先の話だというのならば、それもよかろう。ここで約束することでもないということだからな。それよりもじゃ、もしわが国に豊かになってもらいたいのであれば、貴国の科学とか技術か、それらや商売の法などを知らねばならぬ。そうではないか」
「そのとおりです」
「貴国に行って、帰って来るにはどれくらいの時間がかかる」
「往復に三か月か四カ月が必要です」
「では、相談じゃが、わが国の若者十数名を、そちの船に載せてくれぬか。貴国に行かせて一年程学ばせたい」
「それは、喜んでさせていただきます。両国の友好の礎になることでしょう」
「それからじゃ、そちの船は風上に上ると聞いたが、そのとおりか」
「はい、風上に航海する術を持っております」
「それをロンドンに来航させよ。わしが乗ってみたい」
「よろしいでしょう」
シンガの通訳がつっかえる。“『川内』がロンドンに来たら、せっかく買った袖をマーガレットに渡せなくなる”。
「見たうえで決めるが、もし気に入ったら、一隻くれぬか」ヘンリーが言った。
ジョン・ダイナムが口をあんぐりと開ける。もちろん、心の中でだけだ。この話は破談になるな、彼が思った。
「よろしいでしょう。可能な限りすみやかに一隻の機帆船を差し上げます」安宅丸が言う。
「よし、ではオルダニー島租借の件と、ガラス工場の件。両方とも合意しようではないか」
ヘンリー王がそう言って立ち上がり、安宅丸の手を取って握手した。
ジョン・ダイナムと港湾長官が眼を丸くして二人を眺める。
ヘンリーがジョン・ダイナムを一瞥する。
“交渉とは、このようにするものじゃ”と、得意そうな顔だった。
安宅丸が『虎の子』の機帆船を譲り渡すことに、納得がいかないかもしれない。しかし、歴史上にもこのようなことはある。
一番身近な例が幕末にあった。
一八五五年、徳川幕府が最初に手に入れた機帆船軍艦『観光丸』はオランダから贈呈されたものである。『ただでもらった』のだ。
当時オランダは、日本を一刻も早く開国させ、自国の既得権益を維持したかったし、また、艦船を売ることが商売にもなると考えたのだろう。
以来幕府や有力藩は、明治維新までの十四年間に八十隻を超す軍艦、船舶を外国から購入することになる。
安宅丸は条約をまとめたかったし、将来イングランドにスペインとポルトガルを牽制させるために、必要ならば、機帆船を売っても良かった。さらにいえば造船技術を移転してもいい、片田はそこまで言っていた。
イングランドにスペイン、ポルトガルが牽制できるようになるためには、それくらいにならなければならない、そう思っている。
ヘンリー七世は、そのあたりを見抜いたのであろう。