マーケット
翌朝になった。グリニッジ宮殿での拝謁は、今日の九時課(午後三時)からに変更する、と早朝にグリニッジから連絡が来た。この時間になった、ということは、その後の晩餐にも安宅丸達が同席することになるのだろう。この話はまとまったようなものだ、ジョン・ダイナムが判断した。
ロンドンからグリニッジまでは八キロメートル程で、馬車ならば一時間位で到着する。
なので、午前中の時間が空いた。ジョン・ダイナムは安宅丸とシンガに、この時間でロンドンの市場を見に行くか、と提案した。
「市場に行けば、どのようなものが、幾らぐらいの価格で売っているか、見ることが出来るだろう。交易の参考になるかもしれない」とジョンが言う。
「それは助かります、こちらからお願いしたかったことです」
「ただし、私や港湾長官から離れないように欲しい。君たちは外見から、一目で異人種だとわかる。シティの人々は外国人を嫌う。場合によっては石を投げられたり、暴力をふるってくるかもしれない」
「そうなんですか」安宅丸が言う。
「ああ、フランスと百年戦い、そのあとに三十年の内戦があった。戦が終わったのは、ほんの七年前だ。表向きは普通でも、人々の内心は荒んでいる」
「それは、大変な経験をされたのですね」
「そうだ。なので、我々のすぐ後をついてくるようにしてくれ、そうすれば我々の付き人か、または奴隷とみなして、攻撃してこないだろう。すまないことだが」
「いいえ、かまいません。離れないようにいたします。シンガも分かったな」
「わかったよ」
「もし、何か興味を引くような物が見つかった時には遠慮なく声を掛けてくれ、そうすれば止まることにする」
「承知しました」
そんな会話があって、ジョン・ダイナムの邸を出る。出たとたんに、無数の教会の鐘が響いた。三時課(午前九時)の鐘だった。
まだ、ヘンリー八世のイギリス国教会設立以前のことだ。狭いシティの中や、城壁のすぐ外に多数の教会や修道院があった。それらの塔の鐘が一斉に鳴るので、うるさいこと、この上もない。
史実では、ヘンリー八世がこれらのカトリック教会の土地や財産をことごとく没収してしまい、残ったのはセント・ポール大聖堂くらいだ。これはイギリス国教会の聖堂として残った。
ジョン・ダイナムに導かれて、四人が歩く。ロンドン橋から北に延びる道を三百メートル程も歩くと、商店街に着く。レドンホール・マーケットだ。まだ通路の屋根は無い。
元々が食肉市場から始まったといわれていて、近づくと食肉の臭いがする。安宅丸が博多の中国人街を思い出す。
ここに来るまでも、すれちがうイングランド人たちが不審そうな目で安宅丸達を見ていくのを感じていた。マーケットに入ると行き交う人が増えるので、余計それを感じる。
常設の店舗があり、常設らしい屋台もある。マーケットの周囲や、マーケットの中では行商人が売り歩きする。首に掛けた紐で支えた板の上に商品を並べて売り歩いている。
彼らのような行商人のことをパイパウダーというらしい。
売っている物も様々だった。肉屋が多いのはもちろんだが、八百屋、香辛料商、雑貨商、衣服商などが商品を並べる。エールの立ち飲み屋があった。その隣には焼いた肉など、エールとともに流し込む料理を売る店がある。
まだ、フィッシュ・アンド・チップスを売る店はない。ジャガイモが新世界から到来していないからだ。
「ダイナムさん、ちょっといいかな」ある店の前でシンガがジョンを呼び止めた。
「うん、なんだ。欲しい物でもあるのか」そういってジョンと港湾長官が振り返って立ち止まった。
装飾品を売る店のようだった。老婆が店番をしている。
「おばあさん、僕と同じくらいの娘がよろこびそうなプレゼントって、なんだろう」
「なんじゃ、異国の人、娘っ子にプレゼントをするのか。お前は奴隷なのではないのか」
「奴隷じゃないよ、ねぇ」
「うん、婆さん、奴隷ではない。詳しくは言えぬがな」ジョンが言った。
「そうか、それは失礼なことを言ったの。許しておくれ、若い娘へのプレゼントかえ」
「うん」
「それならば、最近は、これじゃ」そういって筒型の赤い布を出してきた。
「これ、なんだい」
「女性が身に着けるチュニック(筒型衣装)の袖じゃ」
「服の袖だけ、売っているの」
「そうじゃ」
チュニックの原型は貫頭衣である。長方形の布の真ん中に穴を開けた形をしている。
『日の丸』を横に長く延ばし、赤い部分にすこし小さい穴を開けたようなものだ。穴に頭を入れ、布を前後に垂らし、腰の所をひもで縛る。
なので、元々は袖が無い。チュニックにもそれが残っていて、袖の無い物がある。
「チュニックといわずにブリオーとも呼ぶがの」
「なんで、袖をあげると、喜ぶんだい」
「男の子には、娘の気持ちはわかるまい。ブリオーと異なる袖を身に着けるということがの」
「わからない」
「袖とは、両の腕につけるので、衣装の中で一番目立つじゃろ」
「それは、そうだろうね。わかるよ」
「それでな、ブリオーと異なる生地の袖とは、たいがい若い男が娘に贈るもの、と決まっておるのじゃ」
「そうなのかぁ」
「そうじゃ。だから、体の一番目立つところに、『私には、いい男がいるのよ』と書いてあるようなものなのじゃ」
「そんなことが、嬉しいのか」
「ああ、嬉しい。そうやって、同性の娘達にみせびらかすのがな」
「ふぅん。そうか。じゃあ、それを売ってもらおうかな」
「金は持っておるのか」
「持っていないけど、船に帰れば……」
港湾長官が横から割り込んでくる。あまり余計なことをしゃべられるとまずいと思ったのだろう。
「婆さん、それいくらだ」
「二シリングじゃ」
「高いな、一シリングにしろ」
「哀れな年寄相手に値切るとは」
「マーガレットに買ってやるのか」港湾長官がニヤリとしながら尋ねる。
「うん、そのつもりなんだけど」
「よかろう。一シリングならば、港に帰るまでの間、わしが立て替えてやろう。金は持っているだろうな」長官がシンガに言った。
「砂金なら、もってるけど。これくらい」そう言ってシンガが片手を握る。
「それなら十分過ぎる」
二人の会話が終わるのを待っていた老婆が言った。
「お若い紳士さま、お前の娘は何色の服が似合うのかのぅ」いつのまにか、奴隷が紳士になった。シンガが片手ほどの砂金を持っていると言っていたのを、聞き逃さない。
「そうだなぁ、僕が見た時には青い服を着ていた」
「そうか、そうか」そういって老婆が台の下から青と緑の袖を出してきて、最初の赤と三つ並べる。
「どうじゃ、どれも目が覚める程美しかろう」
「うん、そうだね」
「娘が持っている服は一つとは限らない。色もな。これだけあれば、どの服にもだいたい、あわせられるであろうのう。どうじゃ」
シンガが決めかねている。
「三つまとめて買ってくれるなら、三シリングでいい」
シンガが港湾局長の方を見つめる。こいつ、やり手婆さんの術中に落ちているな。
「わかったよ。三シリングだな。買ってやる」港湾長官が言った。
そして、財布からハーフ・エンジェルを一枚とりだして、老婆の手に握らせた。
「四ペンスの釣りはいい。とっておけ」
「はいよ、ありがとよ」そういって、老婆が三対の袖をシンガに渡した。
この時代のイングランドの通貨単位はポンド、シリング、ペンスであるが、驚くなかれ、長らくポンド金貨、シリング金貨というものがなかった。
長い間に、通貨単位と貨幣の価値に差が出てしまったのだろう。
四年前にやっとヘンリー7世がポンド金貨を出すが、まだ流通は少ないし、ポンドなどという高額金貨を持ち歩く者はいない。
あるのはマーク金貨、エンジェル金貨、グロート銀貨、ペニー銀貨などで、まちまちな価値だった。
たとえばエンジェル金貨は六シリング八ペンスだった。なので、ハーフ・エンジェルは三シリング四ペンスになる。