イングランドの旅 1
ポーツマスから王のいるロンドンまでは陸路で百十キロメートル程ある。港湾長官の手紙が駅馬によって運ばれるのには一日かかる。
二日後に王からの返信が来た。
異国船の艦長と直接面談したいので、彼が持参した交易品と共にロンドンに連れてくるようにということが書かれていた。
港湾長官が安宅丸に打診した。安宅丸が同意する。
翌日の朝、安宅丸とシンガを載せた馬車がポーツマスを出発する。長官は騎乗して、馬車の前を進む。
馬車の前後には十騎ずつ配置され、馬車と長官を守っていた。
この時代、主要な街道の左右数十メートルは藪や木を除くよう王により命じられている。盗賊除けである。
しかし、町から外れてしばらくすると、そのような整備はなされていないので、護衛が必要であった。
シンガが馬車の窓から見える異国の景色に魅せられている。
「畑が細長いんだね、不思議だね」シンガが言う。
季節は秋だった。畑の収穫は終わっている。
「あまりキョロキョロするんじゃないぞ」安宅丸がたしなめる。
『第一次囲い込み』が始まったばかりの時代だ。まだ沿道の畑は中世の風情を残している。
夕方になる。今日の宿はリスという村の騎士の城館だと港湾長官に言われていた。シンガがモジモジしている。
「どうした」
「早く着かないかな、厠に行きたい」
「そうか、もうすぐだと思う」
やっと着いた。シンガが馬車を降りて、長官に訴える。彼が頷いて迎えに出た執事に尋ねる。
執事がシンガに向かって何か言い、左の方を指さした。
少しして、シンガが顔を真っ赤にして帰ってきた。
「どうした」安宅丸が尋ねる。
「厠に、女性用のドレスがたくさんぶら下がっていた。どういうことだろう」
「さてな、どうしてだろう」安宅丸が言う。
「どうしたのだ」長官が英語で尋ねる。シンガが英語で答えた。
「ああ、それは厠に服をつるしておくと、虫がつかないのだ。なので、日曜日に教会に着ていくような上質のドレスは厠で保存するのだ」
シンガが眼を丸くする。それでも、臭いが付かないのか、とは尋ねなかった。
広間に食卓が用意された。この城館の主人夫婦がもてなしてくれる。
「あいにく、今日は水曜日でな、肉ではなく魚になる」主人が長官にすまなそうにいう。
当時のイングランドのカトリック教徒は水曜日と金曜日は肉を食べない。この断食の習慣は、形を変えているが現代にも残っている。
マクドナルドのメニューにフィレオフィッシュがある理由の一つだ。
「だが、月曜日にセルジーの海岸にクジラが打ち上げられた」
「ほう、手に入れたのか」長官が嬉しそうに言う。
「そうだ。海岸で茹でた魚を運ばせた」
現代ではクジラは魚ではない。海棲哺乳類だ。しかしキリスト教徒が断食で『魚』と言った場合、『海に棲む生き物』といったような意味になる。なので、クジラもアザラシもカモメなどの海鳥も魚料理に含まれる。
まず、ホウレンソウのスープとカッテージチーズ、そして表面に焼き色のある丸パンが出て来た。
スープにはスプーンが付いてきたので、それで食べればいいことはシンガにもわかる。
柔らかいチーズとパンは手で食べやすい大きさにちぎって食べればいいらしい。主人やその奥さんがそのようにしている。
パンの中は白かった。
いよいよ主人自慢のクジラ料理が出て来た。ナイフが付いてくる。どのように食べるのかな、とシンガが主人たちの方を見ていると、クジラの肉をナイフで食べやすい大きさに切り、指で掴んで、口に運んだ。シンガが驚く。“箸を使わないのか”
シンガが安宅丸の方を見る。うなずいた。彼らと同じように食べようと言っているのだろう。
「これは、旨いぞ。クジラなぞひさしぶりだな」長官が言った。彼はそういって、テーブルの上のボウルに入った水で指を洗い、ナプキンで拭いた。
この時代、まだイングランドには食用のテーブルフォークは入って来ていない。
しかたがない。シンガが覚悟を決めて、肉を指で掴み、口の中に入れた。不思議な料理だ。甘い。砂糖とコショウの味がした。それに挽いた木の実が振りかけてあった。
「西の海から来た客人達はいかがかな、料理は口にあいますかな」主人が尋ねる。
安宅丸が、たいへんおいしいですと答え、それをシンガが翻訳した。
この時代、夜の食事が終わったら寝るだけだ。キリスト教徒達は就寝時に暗誦する祈りがあるが、安宅丸達は異教徒だったので、それもない。
ベッドに入ると、甘い花の香がした。ラベンダーのポプリが枕に入っている。虫除けである。