ブルターニュ
安宅丸の機帆船『川内』がグレートブリテン島とアイルランド島の周囲を八の字を描くように周回し、海図を作成している。
ドーバー海峡沿いや東海岸では無理だったが、それ以外の海岸線では、時々小さな漁村に寄って、水や食料を補給した。対価には小さな手鏡が喜ばれた。
シンガが覚え始めた片言の英語で会話し、イスラム圏で覚えた、両者にとって納得できるような取引を心掛けた。
そこで、彼等は gentle western、「紳士的な西方人」と呼ばれることになる。まだ Chinese、あるいは Japanese という言葉は英語の語彙にはなかったし、シンガが西の方の海からやってきた、と自己紹介したからだ。東や南から来た、というと警戒される。
英語でChina 、Japanと言う言葉が現れるのは十六世紀になってからだ。
中国語の『日の出』が jih pun。それがポルトガル語のJapao、オランダ語のJapanを経て、英語のJapanになったのだそうだ。
海岸防備や海軍は無いのか。海岸防備はドーバー海峡沿岸にはあっただろう。海軍は無いも同然だった。ヘンリー七世が即位したとき、彼は六隻の船を相続した。彼の在位中には『トリニティ・ソヴリン』、『リージェント』の二隻を含む四隻の王室所有船を建造した。併せても十隻である。これでは周囲全ての海岸を守ることは出来ない。
地中海の国々は、古代から海戦、制海権という考え方があったであろう。貿易が盛んで、海賊も多かったからだ。
しかし、この時代の辺境、イングランドにはそのような考えはなかった。史実においては、海戦や制海権を考え始めるのは、ヘンリーの子、ヘンリー八世あたりからである。
安宅丸達がイギリス周辺を調査している間に、この頃のチューダー朝イングランドについて考えてみよう。
ポズワースの戦いに勝利してヘンリー七世が樹立した王朝がチューダー朝だった。この王統を辿ると、ノルマンディー公ウィリアムである。ウィリアムというとイギリス人のようだが、彼自身も、彼の宮廷もフランス語しか話せなかった。なのでフランス風にギョームと呼ぶのが正しいとも言われている。
「ギョエテとは俺の事かとゲーテ言い」という有名な川柳があるが、それに倣えば「ウィリアムは俺の事かとギョーム言い」ということになる。
ノルマンディー公という称号は、フランス王の臣下であり、ノルマンディー地方をまかされている公爵ということだ。
そのノルマンディー公が、イングランドの王位継承権を主張して一〇六六年にグレートブリテン島に上陸し、イングランドを征服する。これをノルマン・コンクエストという。
ギョームはイングランド王になったが、同時にフランス国内にも支配地を持っている。これが災いの元になる。
以来イングランドとフランスは、フランスにあるイングランド王の領地や王権そのものをめぐって、戦争を繰り返すことになる。
最大の戦いが百年戦争だった。
イングランドは、その長弓隊が活躍し、フランスの南三分の一をとったり、とられたりしたかと思うと、今度は北部に上陸し、北半分を抑えたりした。
しかし、フランス側が銃と大砲を大量に入手すると形勢が逆転する。加えてジャンヌ・ダルクがオルレアンからランス大聖堂までの『大陸打通作戦』を決行すると、イングランドは崩れ、カレー港周辺の一部を除き、ついにフランス本土から追い払われてしまう。
終戦時点でのイングランドのフランスに対する影響力は、カレー港の周囲のわずかな領土と、北西部のブルターニュ公国との友好関係だけになった。
ブルターニュ公国はフランスの一部である。しかし、絶対王政を目指すフランス国王は公国を廃止してフランスに吸収することを画策していた。
イングランドは、その後『薔薇戦争』という三十年間の内戦に苦しむが、ヘンリー七世が即位することにより、ようやく安定する。
ヘンリー七世が即位して目指したのは、なによりも王権の権威回復と王室の財政健全化であった。
とにかく、メディチ銀行が傾くほどに、イングランドもフランスも借金をしていたのだ。
また、ヘンリーもフランスと同様に王権の伸長を狙っていた。極力戦争をおこさず、厳しい税制を導入し、産業の育成をおこなった。
なにしろ、この頃のヨーロッパで大国といえばフランスとスペインであり、イングランドは弱小国家にすぎなかったので、彼等の後を追いかけなければいけない。苦難の道のりだった。
ヘンリーは自分の息子、アーサーとカトリック両王の娘カタリーナの縁組を提案してスペインに接近する。カタリーナは後にヘンリー八世の最初の妻になる『アラゴンのキャサリン』である。
ヘンリーは戦争を望まなかったが、一度だけ戦争に巻き込まれる。
一四八七年にフランスがブルターニュに侵攻したためだった。ブルターニュはイングランドとフランスの間の緩衝地帯だった。加えてヘンリーがイングランドから逃亡していたときに、かくまってくれたのはブルターニュである。さらにイングランドの大陸との貿易相手としても重要であった。
ヘンリーはブルターニュと『ルドン条約』を締結して、六千人のイングランド軍をブルターニュに進める。
しかし翌年ブルターニュが敗戦した。ブルターニュ公が没し、公の娘のアンヌがフランス王シャルルとの結婚を強制されることになる。
この時、ブルターニュ人達はシャルルとアンヌの結婚を許してしまう。
当のブルターニュがこのありさまでは、イングランド軍がブルターニュにいる理由は無くなった。
ヘンリーはこの時、兵を引き揚げてもよかった。しかし彼はそうせず、さらに二万六千の兵をブルターニュに送る。ほとんどフランスを挑発しているようなものだ。
ヘンリーには成功する見込みがあった。おそらくスペインのカトリック両王フェルナンドとイザベルからの密使に知らされたのであろう、私はそう想像している。
『フランス王は、イングランドとの戦争に関心はない。彼の関心はイタリア侵攻にある』
なので、ヘンリーは戦うつもりもなく強気に出た。シャルルは交渉のテーブルについた!
一四九二年十一月三日、ヘンリーとシャルルの間で『エタープルの和約』が調印される。
ヘンリーはシャルルをブルターニュの統治者として認め、一方シャルルは薔薇戦争の敵方、ヨーク家の末裔に対する支援を止めることを約束した上に十六万ポンドの賠償金をイングランドに支払った。
ヨーロッパ中世の貨幣価値はわかりにくい。十六万ポンドといわれても、多いのか少ないのか、わからない。
ちょっとネットで調べた情報を目安としてみよう。一三〇〇年の労働者の年収が二ポンドというのが出て来た。ペスト流行前の人余りの時代なので賃金は安かったはずだ。
これによると、八万人の年収に相当する額になる。ペスト後のヘンリー七世の時代に、その倍になっていたとしても四万人分の年収になる。
四万人を一年間投入したら、ちょっとした城塞をつくれるだろうし、当時の船舶だったら何十隻も建造できるにちがいない。
ヘンリー七世は豪胆な王に成長していた。
なお、この物語のなかで、少し後にチャンネル諸島という島々が出てくる。これはブルターニュの北方にある諸島だ。ジャージー島、ガーンジー島、オルダニー島などからなる。
体操着のジャージーや、合衆国のニュージャージー州、牛のジャージー種などは、このジャージー島が名前の由来となっている。
この諸島はノルマンディー公の領地であった。
そのため、いまでもイギリス王室属領となっている。連合王国(UK)ではない。王室が所有している。
なので、例えばエリザベス二世がこの島を訪問したときには地元の人々は『イギリス女王』とは呼ばず、『ノルマンディー公(Duke of Normandy)』と呼ぶことになっていたそうだ。
Duke の女性形は Duchess だが、この称号は歴史的なものということで、Duke のままで呼ばれていて、エリザベスもそれを受け入れていたという。
現在の王が何と呼ばれているのかまではわからなかったが、ChatGPTさんに尋ねてみたら、ノルマンディー公の称号も継承しているので、もし同諸島を訪問することがあれば、『ノルマンディー公』呼ばれることになると思う。
読者の中には英語を学んでいる学生もいると思います。
英単語を覚える時に、語源を知ると、記憶に残りやすいです。
「ONLINE ETYMOLOGY DICTIONARY」 というオンラインの語源辞典があります。
URLは書きませんが、「」内をグーグル検索すると、トップに出てきます。
英語の辞典ですが、日本語に機械翻訳する機能があります。
語源を知れば、文化としての英語を楽しむことができ、自然と単語も覚えていくのではないでしょうか。