年季明け (ねんきあけ)
機帆船『川内』が朝日を背に受けて、リモン湾の浜に近づいてくる。この時代、夜間に陸地を発見した場合には、朝まで待つ。海図に不備があったとき座礁しかねないからだ。
浜に立つシンガからみると、『川内』は影になっていて詳細には見えないが、なつかしい姿だった。
あの船に忍び込み、密航しようとしたのが、安宅丸達と出会ったきっかけだった。
『川内』から連絡艇が降ろされ、浜に向かってくる。数人が乗っているようだ。艇が浜に着く。最初に降りて来たのは安宅丸だった。浜で待っていた犬丸と抱き合う。
互いに地球を半周して、日本の反対側あたりで出会ったのである。特別の感慨があった。
犬丸が安宅丸を建設小屋の方に導こうとすると、安宅丸があたりを見回す。そして、シンガを発見すると、寄ってきた。
「シンガ、大きくなったな。元気だったか」安宅丸が言う。しばらく見ないうちに少し大人びたようだった。
「ああ、病気をしたこともなかったよ。おかげさまで」
「それはよかった。ところでだが、今年の正月でお前の五年の年季が明けた。シンガ、お前を下人から自由人に戻すことにする」
「えっ、それ、忘れていたよ」
「まあ、そうだろうな。これは年季明けの祝いだ。納めておくが良い」そういって、安宅丸が握りこぶし程の袋を渡した。シンガが中を見ると、砂金が入っていた。
「いままで、給金も払わずに働かせていたからな」
「これ、もらえるのか。もらえるのは嬉しいけれど、持っていても使い所がないなぁ」
「航海中は、私の部屋の金庫においておくとよい。それとこれがお前を下人に下した証書だ。お前に渡すので破いてしまえ」
シンガは、犬丸達と別れ、安宅丸の艦に乗ることになっていた。
建設小屋の中で、犬丸と安宅丸が話している。
「これからイングランドに行くことになっているそうだな」犬丸が言う。
「ああ、そうだ。メキシコ湾から海流と偏西風に乗って、高緯度で大西洋の東側に戻ることになる。ヨーロッパ沿岸の測量を行い。可能ならばイングランドの王室と外交せよ、と言われている」
「また、無茶な命令だな」
「ああ、どうしたら王室と外交を結ぶのか、見当もつかない」
「とりあえず、役に立つかもしれないと、堺から積荷が来ているので、こちら側に運んである」
「無線では詳細なことを省いていたが、どんなものが来ているんだ」
「金、鏡、ガラス、重曹、明礬、銀、硝酸、アンモニア、カタクリ粉などだ。金や鏡、ガラスはわかるが、重曹と明礬ってなんだ。西洋人も胃がもたれるのか」犬丸が不思議そうに言う。
「ああ、重曹はガラスを作るのに使うんだ。ガラス産業をイングランドで始めさせよう、という考えだ。明礬は羊毛を染色するのに使う」
「あと、銀、硝酸、アンモニア、カタクリ粉は鏡を作るのに使う」
「それで、外交関係を作ろうというのか」
「そうだ。そのために『川内』にガラス職人を乗せている」
「『じょん』の考えそうなことだな」
「ああ、そうだ。ただ、どのようにして王室に接近するのか。そのために、金、鏡、ガラスを使えということなんだろうが。まだ、さっぱり思いつかない」
「そうだな。ただ、シンガが役に立つかもしれない。シンガには堺から来た英和辞典と羅和辞典の写しを渡してある」片田が現代からリュックサックにいれて持ってきた二冊を筆写したものだ。
どちらも片田が大学の購買部で買ったものだ。羅和辞典は役に立つかどうかわからなかったが、衝動買いしていた。
「それは助かる。シンガならばすぐに覚えてしまうだろう」
「羅和辞典って、なんだ」
「ラテン語の辞書のことだ。ラテン語とは、古代ローマ人の言葉だがヨーロッパの共通語になっているそうだ。ラテン語が流暢に使えれば、教養人として一目置かれるという」
「日本で言うと、漢文みたいなものか」
「そうだ」
当時のイングランドは、ヨーロッパの中では弱小国家であり、産業も羊毛の輸出くらいしかなかった。窓にガラスを入れられるようになるのはエリザベス一世の時代あたりからである。
イングランドの川に無限にある川砂から作れるガラスと鏡ならばすみやかに産業化できるであろう。
「ところで、イングランドに行く前に、一つ頼みたいことがあるんだが、やってもらえないだろうか」犬丸が言った。
「なんだ」
「ゴムの種か苗木が欲しい」
「ゴムか、『じょん』が言っていたな。地図のアマゾン川流域にあるそうだな」
「ああ、大西洋岸に造船所を作る最優先の理由だが、最初の船を進水させるのには、一年以上かかるだろう」
「そうか、ではイングランドに行くまえに寄ってみよう。もし手に入ったら戻ってくる」
「そうしてくれると、助かる」
アマゾン河口についた安宅丸達は、容易にゴムを手に入れることが出来た。そのあたりの住民がゴムの樹液を固めたボールで遊んでいたからだ。訪れたどこの村もそうだった。
彼らの所にも翡翠のアイブラックが伝わっていたので、躊躇することなく接近できた。
ボールを作った樹液がでる木を売ってくれ、と言ったら「カウチューク」「カウチューク」と言って、喜んで運んできてくれた。
安宅丸はゴムの苗木と種を入手して犬丸に届けた。




