明応の政変 (めいおう の せいへん)
明応二年(一四九三年)四月二十二日早朝。
細川政元配下の武将が嵯峨の天龍寺に駆け込む。朝の務めをしていた清晃を迎えるためだ。
数えで十二歳の清晃が法衣のまま、連れ出される。
同時刻、政元は在京の将軍足利義材の身内の者達を捕縛することを命ずる。
まず、足利義政の東山山荘を寺にした慈照院に住んでいた周嘉が連れてこられる。義材の弟である。次に岩倉の実相寺から義忠が連行されてくる。これは周嘉の兄である。
女性であっても、容赦はなかった。
現在の烏丸御池あたりにあったとされる通玄寺という尼寺の曇華院からは祝渓聖寿という尼僧が拉致されてくる。これも将軍の妹である。
法衣をはぎ取られ、小袖と黒の袴だけの姿で連れてこられた。
政元に保護された清晃は、お前は征夷大将軍になるのであるから、髪を伸ばせ、と言われる。
今朝までは、寺の小坊主だったはずだ。現代の日本であるならば、小学校の高学年程の年頃なのに難儀なことである。
政元が京を制圧した、との報は、ただちに河内派遣軍にも届く。諸将は動揺した。
知らせを追いかけるように、諸将や奉行衆に対して、伊勢貞宗の書状が届く。清晃が新将軍になったので、これに服属するように、という書であった。
その最後には、政元、貞宗、そして富子の名があった。
「御台様も同意なされているのか」
「いや、この度のことは、御台様の御心だそうだ」
そうして、まず将軍直属の奉公衆が京に戻り始める。長年幕府に仕える彼らにとっては、幕府は将軍義材ではなく、御台所であった。
「御門に正式に任命された征夷大将軍は、わしではないか、あの者どもはみな、反逆者じゃ」義材が言うが、帰洛する奉公衆は増えるばかりだ。
「赤松は、どうしている」義材が尋ねる。
「左京太夫殿は、堺に留まっておられます」
「大内は」
「はい、こちらに向かっている最中で、いまのところ兵庫あたりだと聞いております」
「早く来いと、使者を送れ」
「承知いたしました」
四月も晦日になる。次は五月のはずだが、この年には閏四月がある。閏月というものだ。
太陰暦は、陰、すなわち空に登る月によって、一カ月を決める。新月から次の新月までが一カ月だ。この間の日数は約二十九.五日である。
そうすると、一年十二カ月は約三五四日になる。太陽の動きによって決まる一年、三六五日より十一日短い。
三年もすると、暦が一カ月早くなってしまう。暦の上で三月になっても、二月のような寒さが続くことになる。これでは、暦を持っていても農作業の役にはたたない。
なので、三年に一度、一月を加えて調整する。これを閏月という。
この日、京の大内氏の邸に賊が侵入し、大内政弘の娘が誘拐されるという事件がおきる。
兵庫まで父の名代として出陣してきている大内義興の妹が誘拐されたのだ。賊は篠懸という山伏が着る麻の法衣を着ていたそうだ。
しかし、法衣の下から、武田菱の袖紋が覗いていた、という者もいて、誰が犯人か判然としない。
この時義興は元服してはいるが、まだ数えで十七歳である。京に育った若者だ。それが領地の周防、長門から出て来た武将や兵に囲まれて兵庫にいる。
彼が向かう河内の義材軍からは離脱者が増えている、という報告が来る。
そこに、妹が攫われたという、下手人はわからない。
さぞや、途方にくれただろう。現代のように電話を掛けて父に相談することも出来ない。どうしたらいいか、わからない。
結局、彼は兵庫に留まり続けることを選ぶ。
閏四月七日には、京にいる政元側の体制が整う。先陣として、上原元秀と安富元家が京を発つ。
この二人に薬師寺元長を加えた三人は、政元の腹心中の腹心である。
高屋城を囲む義材、畠山政長軍を背後から衝こうというのである。
この時までには、奉公衆だけではなく、幾人かの武将も河内を去っていた。義材の軍は当初の半分以下、八千人程に減っている。頼みの大内軍は到着しない。
最近は、高屋城の兵が城外に出て、野戦を試み始めるようになっていた。
あいかわらず、頭上を烏天狗が舞う。
政長が、自分の領国、紀伊に檄を発した。河内に来りて、将軍義材の軍に合せよ、と。
紀州の軍、根来衆などが、峠を越えて和泉国に侵入する。一部は水軍として、堺沖に帆を寄せる。
紀州陸軍が堺をかすめて、正覚寺の本陣に向けて進軍しようとしたところ、赤松政則の兵が、彼等の行く手を遮り、戦闘になった。