高屋城 (たかやじょう)
畠山政長が将軍に着到目録を差し上げた。
着到目録とは、戦に参加するために、将軍などのもとに集まった武将の一覧である。参集した武将の名前、到着日時、参加兵数などが書かれている。
将軍は、この目録を見ることにより諸武将の忠誠心を推量し、また戦後の論功行賞の材料にもする。
「大内は、来ておらぬのか」
「大内左京太夫殿は、持病が思わしくない、とのことで惣領の従三位殿を名代として上洛させるとのことです。河内で合流したいと申しております」
政長がそう言って、大内政弘の書状を渡す。
「よかろう、では、これで全て集まったということであるな」
「おおせのとおりでございます」
「では、出陣を行う」
河内国征伐が開始されたことが宣言された。『三献の儀』が行われ、『鬨の声』が響く。
赤松正則を先頭とした軍が、京の大路を南に向かって進む。赤松の後ろには畠山政長が続き、さらに奉公衆に前後を守られた征夷大将軍が駒を進める。
その後には、何時果てるともなく将兵が続いた。斯波義寛、葉室光忠の姿も馬上に見える。
葉室光忠という男は、公家であるのに、『応仁の乱』や六角征伐に参戦した変わり種の貴族である。
戦前の日本に陸軍参謀本部という組織があった。大将などの上級士官の作戦指揮を補佐するための組織である。そのため、平時から技術や戦史の研究などを行う。
この参謀本部が、明治時代に『日本戦史』という、日本の歴史上の戦争を研究したものを編纂している。私はこの本を実際に読んではいないが、孫引きすると、武将が組織できる兵は、その領地の石高に比例し、『領地百石あたり三人の兵』と推定されているそうだ。
もちろん、石高を正確に知ることはできない。戦国時代であれば、なるべく兵を出したくないので、石高を過小に申告するだろうし、反対に江戸時代の太平の世であれば、景気よく膨らませて『〇○百万石』などと持ち上げたりする。
『領地百石あたり三人の兵』だとすると十万石で三千人の兵を用意できることになる。
おそらく、各国の守護が用意出来たのは、数千人程度であろう。しかし、この軍勢は将軍が招集した兵である。万を超える兵数であったに違いない。直前の六角征伐は、二万人の規模だったという。今回は相手が畠山である。それ以上だっただろう。
出陣は明応二年(一四九三年)二月十五日の事だった。
軍は途中、源氏の氏神である石清水八幡宮に詣で、戦勝祈願を行い、二月二十四日には、河内国、正覚寺に陣を敷いた。
JR大和路線、平野駅の東付近である。畠山義就の子、畠山義豊が籠る高屋城との間は、十キロメートルほどしかない。
将軍義材は高屋城を囲むように諸将を配置する。例えば赤松政則は堺付近の河内国内に置かれた。しかし、複数の曲輪を持つ、当時としては巨大な平山城は、そう簡単には陥落せず、持久戦となる。
無理に攻めれば、兵力の損耗が激しくなるのは目に見えている。
高屋城の東側は生駒山地と金剛山地が細長く伸びており、こちら側での軍の運動は困難だった。両山地の間の大和川が流れる亀の瀬に対しては、高取城の越智家栄が長躯遠征し、王寺町付近で、高屋城の背後を守っていた。
高屋城の東は、金剛山地との間を、石川が南から北に流れている。北と西は、これもまた南から流れ来る大乗川に囲まれていた。
なので、強いて高屋城の弱点を探るならば、南側である。ここは一面に田が拡がる。二月なので、田は乾いている。
この弱点に備えるため、高屋城は本丸である安閑天皇陵から、南へ二の丸、三の丸が伸びている。
畠山政長の軍は大乗川の西に布陣している。やる気満々である。そして、南に下がって大乗川を越え、南側から高屋城の防御を試すが、思っていた以上に固い。
嶽山城で二年四カ月も持ちこたえた義就が築城した城である。下手に総攻撃をすると、どれ程の損害がでるか、わからなかった。
三月に入ると、高屋城の上空に烏天狗が現れるようになった。
天狗は高々(たかだか)と空を飛ぶかと思うと、低く舞い降り、高屋城の本丸に向けて、何か白い物を落としていく。
そして、天狗が空を舞う日の夜には必ず、政長軍の背後で乱破が暴れ、兵糧や装備を焼く。
烏天狗が高屋城の味方をするのか。兵士達は慄いた。
石英丸達の鉄道は運休を余儀なくされる。両軍の間を東西に走っているからだ。