謀議 (ぼうぎ)
この若者は、『わらわ』が、現将軍を、権力を乱用する者だ、と断じたのに対して、畠山政長の差し金であろうと言った。
政長の名をあげる、ということは幕政のなかでの力関係に興味があるということだ。いままでの政元からは考えられない発言だった。
“本気で修験道を棄てたらしい”日野富子が思った。
「今の高屋城は代替わりしています。城主の弾正は、幕府に楯突いたりはしておりません」弾正とは弾正少弼を略したもので、畠山義就の嫡子、畠山義豊のことである。
確かに父の死後、高屋城におとなしく籠り、河内国を経営している。
「そうじゃな」
「ですので、持ち掛け方によっては、こちらに靡いてくるでしょう」
「義就とは違いそうじゃな」
ここまで、政元も富子も、義就のことを右衛門佐などの官位や別名などで呼ばず、直接『義就』と呼んでいるのは、彼が既に亡くなっているからである。
「一方の左衛門督は、押さえがききません。河内国を入手し畠山氏を統一すれば、手に負えなくなるでしょう」畠山政長のことである。
「そのとおりじゃ」
富子には、政長に対して、苦い記憶がある。
文明十年(一四七八年)、畠山政長が山城国守護に任じられたことがある。そのとき、政長は山城国に守護領国制を導入しようとした。
山城国には幕府や朝廷の直轄領があった。また、旧来からの貴族・寺社の荘園も多く残っていた。
従って、守護職といっても名誉職である。
なのに、地方と同じように守護の支配下に置こうとしたのだ。既存秩序の破壊と言える。
この時には幕府が政長を抑え、領国化させることはなかったが、富子には到底許すことのできないことだった。
「ならば、柳営が河内に出陣したならば、お辞め頂くしかありますまい」政元が言った。
将軍である足利義材が畠山政長以下の大名を引き連れて河内国で戦争を行っている間に、クーデターを起こして、新将軍を建ててしまえ、と言っている。
「本気でいっておるのか」
「冗談でこんなことを言えますか。ことによると命にかかわります」
「ふむ」
これは、富子にとって恐ろしい考えであった。
将軍足利義材は、彼女の妹の子だ。つまり甥である。自らと血の繋がった者を将軍の座から排斥しようというのだ。
かわりに政元が将軍に建てるのは、おそらく清晃であろう。堀越公方足利正知の次男で、富子とは血が繋がっていない。
清晃とは、法名である。このときにはまだ僧侶であった。
「で、成算はあるのか」
「それは、御台様次第です」
「『わらわ』次第だと」
「はい、御台様が立たれれば、伊勢と奉公衆も続くでしょう」政元が言う。奉公衆とは、幕府に直属する武士集団のことである。
奉公衆の得ていた所領は近江国に多かった。義尚が六角征伐を行った理由の一つでもある。
しかし、河内国には奉公衆の領地はない。彼らが河内に出征する動機はとぼしくなる。
「しかし、まだ赤松や大内がおるぞ、どうするのか」
「左京太夫殿のところには姉を嫁がせます」政元が言う。
「姉って、竜安寺の『めし』殿を嫁がせるのか。左京が断るかもしれぬぞ」
なぜ赤松正則がこの婚姻を断るかもしれぬ、と富子が思ったのか。それには理由があるのだが、いずれ話すことにしよう。
「さて、どうでしょう」
「大内は、これは、修験道の者達に手伝ってもらう算段があります」
「お前、いつそのような」
「このようなことは、これまでもずっと考えておりました。ただ口にせず、行いもしなかったにすぎません。考えることだけは常に行ってまいりました」
「ただ、修験道だけやっていた『うつけ者』ではない、ということか」
「さて、どうでしょうか」
日野富子は考えた。
もはや夫である足利義政も息子である義尚もいない。妹で、義材の母、良子も二年程前になくなっていた。
富子は歴史上の悪妻の一人だといわれることがある。はたしてそうなのだろうか。尋尊さん達、興福寺大乗院門跡が残した日記『大乗院寺社雑事記』という記録がある。
その天明十二年(一四八〇年)二月二十二日条には、このようなことが書かれているそうだ。
「千本御聴聞御桟敷より公方(足利義政のこと)後出。御車に乗らるるの間、……公方御座なく、御供上下色を失って迷惑、また千本に参り申し、還御おはんぬ、これ天狗の所為なり」
つまり、足利義政が千本釈迦堂での法事の帰り道、ふと御供が牛車の中を見ると、義政がいない。それであわてて釈迦堂に戻ると、そこに義政がポツンと立っていた、ということである。
それを聞いた富子が、
「我も公方御ありての事なりとて……」
義政がいるから、私富子もいられるのである、といったという。これ悪妻か。
京都七口に関所を設けて税を徴収し、一揆を招いたりもしたが、この時幕府の税収入は形を変え始めていた。
従来は幕府直轄地の年貢、地頭からの賦課金、守護からの分担金が税収の主だったところだった。
守護、地頭の独立性が高まるにつれて、これらの税収は減る。
代わって財源としたのが、京都内の土倉や酒屋など金融業を行う者達への課税だったが、応仁の乱でこれを失う。
五山などの寺社に対して課税する。分一銭といって、土地訴訟にあたり、土地の価値の十分の一の銭を先に幕府に納めた側を勝訴となす、などなりふりかまわずに税収を上げなければならなかった。
関所による税収も幕府を維持するためのものだったのだろう。
彼女に残ったのは幕府だけであった。
幕府を中心とした秩序だけが、彼女の守るべきものだった。これまでの生涯、その中で生きて来たのであるから。
「わかった」富子が言った。
政元が退出したあとに日野富子が言った。
「伊勢守に話がある。近々に小川殿に参られたいと伝えよ」