小川殿 (おがわどの)
小川殿という邸宅があった。元々は細川勝元の邸のひとつであった。彼の本宅より少し北西の、現在の宝鏡寺のあたりにあったとされている。
足利義政が、将軍職を子の義尚に譲ったあと、『花の御所』から、小川殿に移っている。その際、義尚と日野富子は御所に残っている。
富子が煙ったかったのだろう。
史実では『花の御所』は『応仁の乱』で一四七六年に焼失している。この物語では、その年になる前に乱が完了している。なので、失火により『花の御所』が消失したことにした。
焼け出された義尚と日野富子が、義政が気楽に過ごしていた小川殿に転がり込んでくる。
加えて『花の御所』に避難していた、後に後土御門天皇と呼ばれる御門まで遷御されてしまう。
小川殿が皇居になってしまったのである。こうなっては、義政が楽隠居などと構えていることは出来なかった。
とりあえず富子が住む居室を増築したあとに、京都盆地の北のはずれにある聖護院坊に逃げ出す。亭主としての務めだけは忘れなかった。
さらに、成長と共に母親と話が合わなくなってきた義尚も出ていった。
乱が終結し、御門も内裏に戻った。
日野富子一人が小川殿に残る。
明応二年(一四九三年)正月の中旬。細川政元が小川殿の日野富子を訪ねる。
「聡明丸が私の所に来るなんて、めずらしいことだねぇ」富子が言った。聡明丸とは政元の幼名である。
「その、聡明丸、というのはよしてください。もう子供ではありません」
「ほほ、確かにね。では右京太夫と、お呼びしましょうか」
「九郎で、いいです」
「では、九郎。なにごとです」
「なにごとでもありませぬ。正月のご挨拶にまいりました」
「ほぅ、去年まで顔をみせたこともなかったのに」
「少々、心を入れ替えました」
「心を、か。ふむ。そういえば、修験の道を遠ざけた、と噂に聞いておるが」
「はい、あれは止めました」
「修験道の狐が落ちたのか」
「いえ、そういうわけではなく、もっと別の、実利のある道を見つけたのです」
「また、新たな道とな、それは『きゃうとい』こと」『きゃうとい』とは、厭わしいとか、恐ろしいという意味だ。
「いえ、そのようなものではありませぬ。算術のような理詰めの道です」
「算術のような、とか。まあ、無難な道であればよいが」
「無難だと思います。もう山を駆けまわるようなことはしませぬし、嫁も迎えます」
「嫁をとる、だと。それはでかした。それならば、『わらわ』の方で、よき女子を選んでやろう」
「よろしくお願いいたします」
富子が、笑みを消して政元を見据える。
「何があったのじゃ」
「それは、その。修験道より確実な方法を見つけたのです」
「どこでじゃ」
「その、片田衆です。彼らの術はすばらしい」
「なに、片田衆だと。鏡台や干しシイタケを売っている、あの片田か」
「はい。くわしいことはもうしあげられませんが、彼等との約束で」
「殿も、片田のことは、よく話しておったが」殿とは義政の事である。
「あの男の技は、かならずや、国を富ますことになるでしょう」
「国を富ますとな、いつそのようなことを考えるようになった。政に真面目に取り組もうというのか」
「はい」
「では、管領職を受けるか」
「今の管領職は、名前だけの物になっていますが、幕府が授けるというのであれば、謹んで拝領いたします。そして、名前だけで終わらぬ務めを果たしたいと考えます」
富子が考えにふける。この若者の心変わり、本物なのであろうか。ひとつ、試してみるか。
「先日、左京太夫がまいっての」
「左京太夫といいますと、赤松ですか」政元が言う。『応仁の乱』で、彼の父と共に東軍で戦った赤松正則のことだ。
今は焼けてしまった『花の御所』で、女猿楽を大人たちに見させられて顔を赤らめていた童も、三十九歳の立派な武者になっている。
「大樹のところに正月の拝賀にうかがったところ、河内征伐の打診をされたそうじゃ」
「河内征伐ですか。高屋城を攻めようというのですか」
「そうじゃ、どう思う」
「昨年に六角征伐を終えたばかりなのに、また戦ですか。大樹は、『戦は民を困窮させる』と言っておいででしたが」
「権力を持つべきではない人間がいる。そのような人間が権力を持つと、力を乱用するのじゃ」
「それはそうですが、それよりも左衛門督の差し金、というほうが大きいでしょうね」畠山政長のことだ。
「それもある。さて、どうする」
今までの政元であれば、「わしは戦には反対である」といって、出征を拒否するだけであったろう。六角征伐のときは、そうした。今回もそのようにするか。
しかし、そうするには、政長の幕府内での力が大きくなりすぎてもいる。このまま、義就亡き後の高屋城を守る畠山尚順を滅ぼしてしまえばどうなるか。
ほぼ四十年続いた畠山氏の分裂に終止符が打たれ、畠山の統一が成立する。そうなれば細川氏としては枕を高くして寝ることが出来なくなるだろう。