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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
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伝心の術 (でんしん の じゅつ)

 細川政元まさもとと付き人三人は、鍛冶丸かじまるの快速艇で、無事さかいに逃れることが出来、その足で片田商店に入る。


 堺の片田順から、福良ふくらの鍛冶丸のところに無線通信が来る。


「……、これに向かって話すだけで、『伝心でんしんの術』が使えるというのか」政元の声がした。

「はい、話してみてください。鍛冶丸と話せるはずです」これは、片田順の声。

「あー、あー」

 鍛冶丸が、思わず微笑む。『じょん』が無線通信機を政元に見せたようだ。片田商店外には秘密にしていたのだが。政元が福良にいた時には、鍛冶丸は無線機を見せていない。


「もしもし、こちらは淡路島の鍛冶丸です」鍛冶丸が、わざと淡路島と入れた。

「おぉ。鍛冶丸殿の声だ。片田殿、聞こえたか。今、鍛冶丸殿の声がしたぞ」


 少し前から、政元は『鍛冶丸殿』と呼ぶようになっていた。一方、豊前守ぶぜんのかみなど、彼の付き人達は鍛冶丸と呼び捨てにしている。


「九郎さんの声も、先ほどから聞こえていますよ」

「なに、わしの声も、そっちに届いているのか。すごいな、いんむすんでいないのだぞ」

「大丈夫です。普通に話せば、こちらに伝わります」

「そうなのか。ものすごいな。修行もなにもせずに、『伝心の術』が使えているのか」

「はい、修験道の秘儀ひぎではありませんから」

「聞いておる。これが、片田殿が科学とか技術とか言っているものだな。特に修行などしなくとも、理にかなった機械を作れば、信じられないことが出来るようになると。飛行艇もそうじゃという」

「そのとおりです」

「遅れたが、福良では世話になった。飛びたいという、わしの我儘わがままによく付き合ってくれた。おかげで目が覚めた」

「それは、よかったです」

「しかも、次にはなんだ、無線機か、これも驚いた。わしは、修験道しゅげんどうは止める。そんなことをしなくとも、これほどのことが出来るのだからな」

「さようですか」

「ああ、修験道はやめて、自然のことわりを学ぶことにする。とにかく、一言礼をいいたかったのだ。何も言わずに逃げてきたからの。福良で世話になったことに感謝する」

「お気持ちは、うけたまわりました」

「そうか、そうか。よかった。感謝していることを知って欲しかったのじゃ。じゃあ、片田殿がかしておるので、これで術を終わるぞ。さらばじゃ」


 政元が、やけにあっさりと修験道から転向てんこうしたな、と思うかもしれない。しかし、修験道と片田の話には近い所もあるのである。

 修験道の根本教義は、

「天地自然の原理、万物能生の理を明にして、 

宇宙万象の和合の根源を表示する作法で、

その中心をなす柱源の

柱は宇宙万物の柱を指し、

源は天地陰陽和合の本源を指す」

 だそうだ。『柱』を物理法則、『源』を化学や生物学などと見立てれば、それほど違和感がなかったのだろう。いずれにしても、合理性を尊ぶ男だった。

 片田達の方法は、実際の御利益ごりやく現前げんぜんしている。こちらの方が修験道より優れているに決まっている、そう考えた。



 政元一行は、数日堺の片田商店に滞在した。その後は鉄道に乗って大和やまと国に回ったらしいが、そのあたりの消息はよくわからない。

 ともかくも、十数日後には、京都みやこに帰っている。それが明応元年(西暦一四九二年)の秋も深まった頃だった。


 この翌年には、『明応めいおうの政変』が勃発ぼっぱつする。なので、この時点での、室町幕府と、その周辺の人々について、整理しておく。

 今のところは、読み飛ばしていただいて、後にそれぞれの人々が登場したときに、さかのぼって参照してください。


 将軍家は、足利義政のあと、その子の義尚よしひさが継ぐが、これも近江おうみ国の六角征伐の陣中で急なやまいで落命する。義尚の後にしばらく義政が将軍職を兼ねるが、彼も二年前に亡くなった。

その後、第十代将軍として、立てられたのが応仁の乱の時の西軍大将、足利義視よしみの子、足利義材よしきである。

 義材の就任にあたって、これを推したのは足利義視、日野富子ひのとみこなどであった。対立候補としては、細川政元が推す足利義澄よしずみがいたが、義政と富子が義材を支持したことにより、義材が将軍になった。

 義材の父の義視は就任一年後に鬼籍きせきに入る。後ろ盾を失った義材は畠山政長まさながに接近する。

 細川政元と、畠山政長まさながの関係は良くない。

 義材は数えで二十七歳、義澄は十二歳だ。


 畠山氏においては、義就よしひろが河内南部の高屋城たかやじょうに頑張っていたが、これも昨年正月に物故ぶっこした。『巨星きょせいつ』の感がある。

 後を継いだのは、義就の実子、畠山義豊よしとよである。このとき、二十四歳になっている。

 義就没後、よく高屋城を守っている。

 一方、東軍についた畠山政長まさながは存命している。河内守護職を守り、実子の畠山尚順ひさのぶと共に、河内国で激しく義就、義豊親子と争っていた。

 また、中央においては、この年には、畠山政長が権力を独占するまでになっている。

 政長は五十一歳、尚順は十七歳になる。


 細川氏は勝元が早くに亡くなっており、細川政元が八歳で家督を相続した。幼少だったため、分家の細川政国まさくにが補佐した。

 このときまでに、政元は二十七歳になっているが、国政にあまり関心を持たず、修験道に没頭し、諸国を放浪するところは、ここまでに書いている。

 修行のため、女性を近づけないので、跡継ぎがいないことも問題だった。


 幕府政所まんどころの執事は伊勢氏だった。『文正ぶんしょうの政変』で「足利義視が義政を暗殺しようとしている」と讒言ざんげんした伊勢貞親さだちかの子、伊勢貞宗さだむねの代になっている。

 この男は父の非行にたいして、泣いて諫言かんげんして、反対に父に幽閉されるような男だったので、周囲の信頼を得ているようだった。

 この物語においても、『応仁の乱』の講和会議は、伊勢貞宗邸で行われている。


 大和では十市とおち遠清とおきよ越智おち家栄いえひでえも、老いてなお、矍鑠かくしゃくとしている。

 尋尊じんそんさんも元気に日記を書いていた。




 蛇足だが、畠山義就が築城した高屋城は、南側に広い二の丸、三の丸を持っている。天守の代わりに、安閑あんかん天皇陵を物見台にしている。平山城ひらやまじろである。

一般的に平城ひらじろや、平山城は戦国時代中期あたりから現れるとされているが、義就はこの城を『応仁の乱』前後に構築している。

 このあたりにも、畠山義就は先見性があったのかもしれない。




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― 新着の感想 ―
> 義政と富子が義材を支持したことにより、義材が将軍になった。 「義視と富子が義材を支持した」の誤りではないでしょうか?
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