伝心の術 (でんしん の じゅつ)
細川政元と付き人三人は、鍛冶丸の快速艇で、無事堺に逃れることが出来、その足で片田商店に入る。
堺の片田順から、福良の鍛冶丸のところに無線通信が来る。
「……、これに向かって話すだけで、『伝心の術』が使えるというのか」政元の声がした。
「はい、話してみてください。鍛冶丸と話せるはずです」これは、片田順の声。
「あー、あー」
鍛冶丸が、思わず微笑む。『じょん』が無線通信機を政元に見せたようだ。片田商店外には秘密にしていたのだが。政元が福良にいた時には、鍛冶丸は無線機を見せていない。
「もしもし、こちらは淡路島の鍛冶丸です」鍛冶丸が、わざと淡路島と入れた。
「おぉ。鍛冶丸殿の声だ。片田殿、聞こえたか。今、鍛冶丸殿の声がしたぞ」
少し前から、政元は『鍛冶丸殿』と呼ぶようになっていた。一方、豊前守など、彼の付き人達は鍛冶丸と呼び捨てにしている。
「九郎さんの声も、先ほどから聞こえていますよ」
「なに、わしの声も、そっちに届いているのか。すごいな、印を結んでいないのだぞ」
「大丈夫です。普通に話せば、こちらに伝わります」
「そうなのか。ものすごいな。修行もなにもせずに、『伝心の術』が使えているのか」
「はい、修験道の秘儀ではありませんから」
「聞いておる。これが、片田殿が科学とか技術とか言っているものだな。特に修行などしなくとも、理にかなった機械を作れば、信じられないことが出来るようになると。飛行艇もそうじゃという」
「そのとおりです」
「遅れたが、福良では世話になった。飛びたいという、わしの我儘によく付き合ってくれた。おかげで目が覚めた」
「それは、よかったです」
「しかも、次にはなんだ、無線機か、これも驚いた。わしは、修験道は止める。そんなことをしなくとも、これほどのことが出来るのだからな」
「さようですか」
「ああ、修験道はやめて、自然の理を学ぶことにする。とにかく、一言礼をいいたかったのだ。何も言わずに逃げてきたからの。福良で世話になったことに感謝する」
「お気持ちは、承りました」
「そうか、そうか。よかった。感謝していることを知って欲しかったのじゃ。じゃあ、片田殿が急かしておるので、これで術を終わるぞ。さらばじゃ」
政元が、やけにあっさりと修験道から転向したな、と思うかもしれない。しかし、修験道と片田の話には近い所もあるのである。
修験道の根本教義は、
「天地自然の原理、万物能生の理を明にして、
宇宙万象の和合の根源を表示する作法で、
その中心をなす柱源の
柱は宇宙万物の柱を指し、
源は天地陰陽和合の本源を指す」
だそうだ。『柱』を物理法則、『源』を化学や生物学などと見立てれば、それほど違和感がなかったのだろう。いずれにしても、合理性を尊ぶ男だった。
片田達の方法は、実際の御利益が現前している。こちらの方が修験道より優れているに決まっている、そう考えた。
政元一行は、数日堺の片田商店に滞在した。その後は鉄道に乗って大和国に回ったらしいが、そのあたりの消息はよくわからない。
ともかくも、十数日後には、京都に帰っている。それが明応元年(西暦一四九二年)の秋も深まった頃だった。
この翌年には、『明応の政変』が勃発する。なので、この時点での、室町幕府と、その周辺の人々について、整理しておく。
今のところは、読み飛ばしていただいて、後にそれぞれの人々が登場したときに、遡って参照してください。
将軍家は、足利義政のあと、その子の義尚が継ぐが、これも近江国の六角征伐の陣中で急な病で落命する。義尚の後にしばらく義政が将軍職を兼ねるが、彼も二年前に亡くなった。
その後、第十代将軍として、立てられたのが応仁の乱の時の西軍大将、足利義視の子、足利義材である。
義材の就任にあたって、これを推したのは足利義視、日野富子などであった。対立候補としては、細川政元が推す足利義澄がいたが、義政と富子が義材を支持したことにより、義材が将軍になった。
義材の父の義視は就任一年後に鬼籍に入る。後ろ盾を失った義材は畠山政長に接近する。
細川政元と、畠山政長の関係は良くない。
義材は数えで二十七歳、義澄は十二歳だ。
畠山氏においては、義就が河内南部の高屋城に頑張っていたが、これも昨年正月に物故した。『巨星、落つ』の感がある。
後を継いだのは、義就の実子、畠山義豊である。このとき、二十四歳になっている。
義就没後、よく高屋城を守っている。
一方、東軍についた畠山政長は存命している。河内守護職を守り、実子の畠山尚順と共に、河内国で激しく義就、義豊親子と争っていた。
また、中央においては、この年には、畠山政長が権力を独占するまでになっている。
政長は五十一歳、尚順は十七歳になる。
細川氏は勝元が早くに亡くなっており、細川政元が八歳で家督を相続した。幼少だったため、分家の細川政国が補佐した。
このときまでに、政元は二十七歳になっているが、国政にあまり関心を持たず、修験道に没頭し、諸国を放浪するところは、ここまでに書いている。
修行のため、女性を近づけないので、跡継ぎがいないことも問題だった。
幕府政所の執事は伊勢氏だった。『文正の政変』で「足利義視が義政を暗殺しようとしている」と讒言した伊勢貞親の子、伊勢貞宗の代になっている。
この男は父の非行にたいして、泣いて諫言して、反対に父に幽閉されるような男だったので、周囲の信頼を得ているようだった。
この物語においても、『応仁の乱』の講和会議は、伊勢貞宗邸で行われている。
大和では十市遠清と越智家栄も、老いてなお、矍鑠としている。
尋尊さんも元気に日記を書いていた。
蛇足だが、畠山義就が築城した高屋城は、南側に広い二の丸、三の丸を持っている。天守の代わりに、安閑天皇陵を物見台にしている。平山城である。
一般的に平城や、平山城は戦国時代中期あたりから現れるとされているが、義就はこの城を『応仁の乱』前後に構築している。
このあたりにも、畠山義就は先見性があったのかもしれない。