細川政元 (ほそかわ まさもと)
細川政元が、飛行艇の操縦を覚えるため、しばらく福良に残ると言い出した。
四人の付き人達は相談して、一人が京都に戻ることになった。
夜。今日も一日、操縦の練習をした政元が、鍛冶丸の研究室で主人と話していた。
「で、殿はなぜ、管領という重職に任命されても、すぐに放り出してしまわれるのかな」と、鍛冶丸が政元に尋ねる。
父親の細川勝元が高齢になってから出来た子であったので、政元が家督を相続したのは、数えで八歳の時だった。
十二歳の時、義政の子、足利義尚が征夷大将軍に任命され、朝廷に拝賀するにあたり、管領が伴わなければならなかったらしい。その時政元が管領に任じられるが、九日で辞職している。
また、一四八七年、長享に改元するにあたり、幕府の吉書始にも管領職が必要だったので、一日だけ管領になっている。
三度目は、足利義尚が陣中で急死し、あとを継いだ足利義材が将軍に就任するときの就任式の時に、これもまた当日だけ管領になっている。
「幕府の役職など、つまらん。公家も武家も、有職故実とか、先例ではこうであったとかいって、不必要な事ばかりしている。そのくせ、本当にやらなければならぬことは、知らん顔だ」
「本当にやらなければならぬ、そう殿がお考えになっているのは、どのようなことなのでしょう」
「そうだな、まず一番は幕府の権威を強めねばならぬだろう。いまは諸国の大名がやりたい放題だ」
「なるほど」
「そのためには、将軍のまわりに優秀な者を置かなければならない。大陸の史書で読んだのだが、彼等は古くから官僚制というものを用いており、資格試験に合格した優秀な官僚を集めて政治を行っているそうだ」
「それは、私も聞いたことがあります」
「そして、前例がどうであった、とかではなく。理詰めで考えて、方策を決めるようにしなければならない」
「そうでしょうな」
「そして、律と令による政だ。昔の物を持ってこようというのではない。紙に記した法で政をおこなわなければならない」
「そのような体制を作るためには、金がいる。金を稼ぐためには、まず貿易だろうな」
「わたくしども、片田衆と考える所は似ていると思います。ただ、わたくしどもは、頭首を『入り札』で選ぶ、というところが異なりますが」『入り札』とは選挙のことだ。
「そうか、それでは話がはやい」
「で、なぜそれをおやりにならぬのですか」
「そのような大きな改革を、幕府の内部で出来ると思うか。出来るわけあるまい。やるとしたら畠山義就のようなやり方しかない。あれは半分、野に出ていたから出来たのだ。わしが出仕すれば、外野どころか、中枢に置かれることになる。身動きも取れぬわ」
「それで、気儘にお暮し、ということですか」
「まあ、そんなところだ」
「少し、このままでお待ちいただけますか。その代わりといってはなんですが、この研究室にある物は、自由に手に取って見ていただいて結構ですから」
そういって、鍛冶丸が出ていった。不思議そうなものばかりの部屋に、さっきから政元は興味津々だった。
「たいへん、お待たせいたしました」そういって、鍛冶丸が帰って来る。
「いや、面白い物ばかりで、時間を忘れておった」
「それは、よろしゅうございました。ただいま、堺の当主、片田と話をしてまいりました」
「なんだと、堺と話とは、狼煙でも使ったのか」
「いえ、そのようなものではありませぬが、堺と話をすることができるのです」
「伝心の術か」修験道に傾倒しているだけあって、超常的なことがあっても、驚かない。
「まあ、そのようなものです」
「で、お前たちの当主が、どうした」
「もしよろしければ、京都への帰途の途中に堺の片田商店にお寄りいただければ幸いです、と申しておりました。殿とお話をさせていただきたいとのことです」
「片田といえば、片田銀を発行するほどに富んだ男だ。よし、わかった。帰る時には寄ることにしよう」
「では、片田に、そのように伝えましょう」
「交易船を売ってくれるのか」
「お望みであれば、そのように申し付けてみなさればよろしいのでは」
「わかった。ところで、これは何に使う物だ」政元が、小型の船外機用のスクリューを手に取って尋ねる。
それから数日。政元が浜で操縦の練習を続ける。
「殿ッ、鍛冶丸の研究所にお戻りください」付き人の豊前守が駆け寄ってきた。
「戻れと。どういうことだ」
「それが、お迎えが来ております」
「そうか、一人消えたと思っていたが、やはり、そういうことか。急に親の具合が悪いとか言い出して、変な奴だとは思っていたが」
「申し訳ありません。殿が飛行を続けて、もしケガでもされたらと思い」
「まあ、それは、責められぬな」
「ありがとうございます。ただ、しくじりました」
「どうした」
「筑後守様が、直々にお迎えにいらっしゃいました」
「なに、筑後が来たのか」
筑後守と呼ばれたのは、安富元家である。政元の指南役兼お目付役のような男だった。
以前、政元が丹波に修験道の修行にいったまま、いつまでも京都に帰らなかったときには、やはり元家本人が迎えに行き、連れ帰っている。このときには、こっぴどい目にあっている。
「豊前、逃げるぞ。こっそり行って二人を連れてこい。わしは鍛冶丸殿の快速艇のところで待っている」