相場板(そうばいた)
初夏である。片田が堺に店を開いて、数か月たった。
「伊予、讃岐は、どこも漆が高いな」
「尾道だけ、やけに素麺が高いが、どういうわけだ。あ、尾道の仁王丸の調べか、あいつらときどきいい加減な数字だしてくるからな」
片田商店の壁に瀬戸内から近畿の大きな地図が描かれている。そこに日付、商品、価格、報告した船を書いた紙片がいくつも留められている。陸上の河内、矢木、奈良などの相場も調べられた限り留めてあった。
「よし、漆を二十斗程追加で買っていこう」そういった男が帳場で、取引証明書を受け取って出て行った。
この相場板は、船乗りたちには好評だった。相場の高い港に行くため、遠回りしていく者もいた。
堺に貨物を入れる船が増えた。そのことから、商人達も相場板を、おおむね好意的にとらえ、片田に売値の千分の一を支払った。
ただ、絹などの高価な商品を扱う商店のなかには取引証明書を拒むものがあった。片田は支払いを強制しなかった。
ある船乗りが、取引証明書に記入しないならば、他所の店で買う、といいだしたことから、堺に三軒ある絹商店が申し合わせ、すべての店で取引証明書を拒否した。
船乗り達は相談して、片田から情報提供の報酬を受け取らないことにした。場所を提供してもらえるだけで充分だ、ということで話が決まったようだった。片田は取引証明書の発行をやめた。
片田の商店の運営が軌道に乗ってきた。楠葉西忍が紹介してくれた五人の商人達だけで運営ができると判断したので、一度片田村に帰ることにした。
堺の街を出て、まず田舎市に入る。荏胡麻油屋に、搾り粕の礼を言わなければならない。
「こんにちは、いつもありがとうよ」片田が言う。
「いやぁ、こっちこそ、片付ける手間がなくなったのでありがたい」油屋が言った。
「これ、礼だ」そういって、馬から搾油器を降ろした。
「なんだこりゃ」
「油を搾るのに使える」
鉄製の円筒の下に受け皿が付いていて、その下に三本の足がある。円筒の上部にはネジの切られた棒が上に伸びており、その上に横向きの柄が付いていた。
「ここの柄を握って、左回しする。そうすると円筒の上部の蓋が持ち上がって、隙間ができる」
「ほむ」
「隙間から、荏胡麻を入れる。一斗ほどいれられるように作ってある」
片田に促されて、油屋が隙間から炒った荏胡麻を入れる。
「そっちのほうの足のところを踏んでいてくれ」
搾油器の足は、接地しているところで、二十センチほど平らになっているので、踏んで抑えることができる。
片田も足を押さえて、柄を右に回し始める。蓋が下がっていく。
「受け皿のところに油壷を置いてくれ」
油屋が壺を受け皿の口にあてる。
「お、出てきたぞ」
油屋が言う。片田が柄を回し続ける。
「まってくれ、油があふれる」
そういって、油屋が、壺を交換する。
「いいぞ」
ものの五分もたたないうちに、一斗の荏胡麻から油を搾り切った。
「こりゃあ、簡単に油が搾れるな」
「おいていくよ」
「いいのか、こんな便利なもの」
「ああ、ここで油が売れれば、まわりまわって、私も儲かる」
「そうなのか。まあ、いいか。礼をいうよ」
「足の踏みつけるところに穴を開けておいたので、地面に杭を打てば、楽に搾れるようになるだろう」
そういって片田は油屋と別れた。
田舎市から東に向かい、大和国を目指す。馬を連れていたが、徒歩である。彼は地形を観察しながら、旅をしている。ここからしばらくの間、理解の助けのために、現代の地名をしばしば使うことにする。道の両脇は田植え後の水田である。片田は田の間の水路の流れを観察しながら歩く。
堺を出て、反正天皇陵までの間は緩やかな登りである。そこから先は大泉池のあたりまでほとんど平坦に見えた。続いて大塚山古墳のあたりまではまた緩やかに登る。
大塚山古墳から、仲哀天皇陵を南に見るあたりまでは、平坦であり、そこから仲津姫皇后陵にむかって少し下り、その先、允恭天皇陵までは明らかな登りである。
いま、片田は仲哀天皇陵を真南に見る地点にたっている。現代で言えば近鉄南大阪線藤井寺駅のあたりである。
南から東に向かって遠くを眺める。南と、南東にあるこんもりとした森は古墳かな、と片田は思った。南東の古墳に行ってみることにした。伊勢街道を右に折れる。
「大きな古墳だな」片田が言った。ここが応神天皇陵だということを片田は知らない。
古墳は地面から三十メートル程盛り上がっている。その周囲には濠があり水をたたえている。さらに外側には外堤が濠を取り囲んでいる。
外堤のところに盛土をすれば、貯水池として使えるだろう。片田は思った。
応神天皇陵から南に下る。水の流れは北に向かっている。古市駅のあたりを過ぎると、川にぶつかる。現代では大乗川と呼ばれている。川の対岸に小さな古墳がある。畠山義就は、その古墳を本丸として城を作ろうとしていた。二の丸、三の丸を構成する濠と石垣の工事が始まったばかりであった。のちの高屋城である。
「広い城だな。あれだけあれば、いざというとき付近の住民をずいぶん収容できるだろう」民を大事にする畠山義就らしい城だ、と片田は思った。
大乗川のどちら側に行こうか思案したが、下流はどこかで大和川に流れつくことは間違いないので、上流にいってみることにした。川は真っすぐ南に向かっている。三キロメートル程もあるいたところ、川は田のなかに消えた。
東を見る。近くに川があるようだ。広い河川敷の川にでる。石川である。右を見ると河川敷が狭くなっている。あそこは傾斜があるな。片田の立っているあたりで傾斜がゆるやかになっているのであろう。
「ここに堰を作るか」片田がつぶやいた。
「大きな古墳から伊勢街道まで、千五百メートルくらいか、あそこだけ手をいれてやればなんとかなりそうだ」
来た道を戻り、義就の城普請現場を過ぎると、すぐに石川にでる。川に沿って北上すると、ほどなく大和川にでる。鉛屋と初めて堺に行ったときに上陸した津である。
馬は、近くの駅に預け、ここから、亀の瀬を越えて片田村に戻る。




