着水 (ちゃくすい)
『ならべ』が飛行艇八号機の後席に座っている。高度計の左下にあるネジを回して開く。かすかに空気が抜ける音がして、高度計の針が零を指す。
“高度計の較正、よし”
昇降計の方は較正の必要はない。針が零を指していることを確認すればいいだけだ。
“昇降計、よし”
“対気速度計、よし。燃料計、よし。方位磁石、よし。時計……、まあ、よし」
飛行艇の操縦席には、いくつもの計器が置かれるようになっていた。
高度計と昇降計は、空き缶のような造りで、密閉された缶の天面が薄い金属になっている。上昇して気圧が減少すると、この部分が膨らむ。その膨らみ具合を計器で示すと高度計になる。
昇降計は、ほぼ同一の構造だが、缶に極めて小さな穴があいている。穴からゆっくり空気が抜けたり、入ったりするので、気圧の変化率を計器で示すことが出来る。それは上下方向の速度を示すことになる
対気速度計は、飛行艇の正面に向けた管と横に向けた管の圧力差を計ることで、機体の速度を知ることが出来た。
すべての動翼の動き、尾部の舵も確認した。
左ひざに紐で留めたチェックリストをすべて確認し終える。『ならべ』が右翼方向に着水している鉄丸機に向かって、チェックが終わったことを無線で報告した。
無線機も搭載されている。
『ならべ』がチェックリストをめくり、飛行計画を確認する。
・福良港を旋回しながら高度二百メートルまで上昇
・二百メートルに達したら、針路を南東にして、六百メートルまで上昇。目標は沼島。
・紀伊水道の海岸線に出たら、針路を西北西にして淡路島の南海岸線沿いを飛行。
・友ヶ島水道まで、高度を徐々に下げて、水道に到着したときには、高度三百メートル。
・左に旋回して針路三百三十度。
・着水経路に入ったら、フラップ十度。降下率百五十メートル毎分で降下。
◎注意! 高度は操縦桿ではなく、絞弁で修正。
・着水したら、三番船渠脇に係留。
『ならべ』は福良港上空での単独飛行は何回も経験していたが、福良から遠隔地に飛ぶのは初めてだった。
『ならべ』が操縦する飛行艇八号を、由良の造船所まで運び、帰りは鉄丸が操縦する飛行艇の前席に乗る。
いま、由良の三番船渠では、檣が主檣と後檣の二本しかない、異形の機帆船を建造している。
前檣のあるべきところには、カタパルトとクレーンが置かれる予定だった。
この艦は飛行艇母艦になる。火薬を使用して、カタパルトから飛行艇を発射し、クレーンを使って海上から回収することが出来る艦として設計された。
飛行艇を射出するときには帆を用いず、エンジンのみを使用して風上に全速力で航行することになる。推進にはスクリューを使用している。
飛行艇八号は、その母艦で試験機として使用される。
鉄丸が、彼の飛行艇を加速させて離陸する。『ならべ』もその後を追って離陸した。湾上で左旋回して予定高度まで上昇する。
“母ちゃんが、仁王立ちして快笑したのも、今ならば分かる”
この爽快さは、何物にも代えがたい。
正面に沼島を望んで、さらに上昇する。南淡路の低い山を越して海岸線に出た時には、高度計が六百メートルを指していた。前を行く鉄丸機が左旋回する。
立冬の風は冷たかった。低い太陽が正面に回って来ると眩しい。正面を見ず、左舷下方の海岸線に目を凝らす。
「降下を始める時は、合図する。それまでは六百のまま」鉄丸の声が受聴器から聞こえる。
「わかったわ」
左は淡路の山々が連なり、右は海で、その先に紀伊半島の山並みが霞んで見えた。沼島は、はるか右後方に去っている。
淡路島と友ヶ島の間の水道が見えて来た。
「降下を始める。速度に注意。接近しそうだったら、絞弁で調整して」鉄丸がそう言った。
五百……四百……三百。水平飛行に戻す。友ヶ島水道が急に広がった。
「俺の後を追って左旋回」鉄丸機が左旋回する。その後を追う。
「絞弁を絞って、時速百二十キロメートルになったら、『下げ翼』十度。機体が浮くけれど、落ち着いて絞弁で調整」
「わかってる」
正面に由良と、その右に海岸線と並行に延びる成ヶ島が伸びていて、水道になっている。その奥に港が見えた。
前を飛ぶ鉄丸機が上昇する。ここからは『ならべ』が先頭に立ち、鉄丸は後方で『ならべ』の着水を見守る。不都合があれば、無線で指示してくれる。
フラップを下げる。機体が浮き上がる。大丈夫、そう言い聞かせてスロットルを絞る。昇降計を見ながら、降下率を百五十メートルに近づける。
なかなか海面が近づかない。ちょっと高度が高いのかな。どんどん水道の奥に進む。友ヶ島の北端にある小山が迫る。
「『ならべ』っ、加速だ。奥に入りすぎた」鉄丸が言った。スロットルを最大に開く。高度を上げて小山の右に延びる砂浜をやりすごす。
「やりなおす。右回りで針路南」
「はい、そうね」
「やりなおしは、恥ずかしくない。事故を起こしたらそれまでだ。何度やりなおしてもいいんだから、気をとりなおしていこう」
「わかったわ」
もう一度進入路に入る。フラップを降ろして、降下速度を調整する。先ほどより少し手前から侵入した。
水面が近づいてくる。操縦桿をわずかに引いて、降下速度をゆるやかにする。次の瞬間に機体が水面をとらえる。機体が跳ねた。
「もう、『下げ翼』を上げてもいいよ」鉄丸が言った。
フラップを上げ、スロットルを手前一杯に引いた。
右隣りに鉄丸が着水する。
「『ならべ』姉さん、やったね」鉄丸がそう言った。地上に降りれば、『ならべ』の方が一つ年上だった。鉄丸が『ならべ』の方に縄を投げる。
「ここからは、俺が曳航するよ」




