スクリュー船
安宅丸は、マリンディでも商館を開き、夏の風に乗ってマラッカに帰ってきた。
堺に戻る。
鍛冶丸が船のスクリュー推進を思いついた、そもそもの糸口は、片田が室町時代に来て、初めて作ったアルキメデス式スクリューポンプだった。
水を汲み上げられるのならば、船の推進装置としても使えるだろう。そう思うのは当然だった。
小舟の後部に取り付けてみると、推進機として使えた。
この時に使ったスクリューは、竹で作った細長い長方形の羽根を二回転させて、竹筒の中に取り付けたものだった。
次にスクリューの形状を変更してみることにする。最初のスクリューの筒の長さを半分にして、一回転とすると、なんと、最初のスクリューの二倍の速さで舟が走った。
どういうことだ。
次いで、外側の竹筒を外し、羽根だけにしてみる。これでも効率はあまり変わらない。どうやら円筒はいらないらしい。
これは、片田が室町時代に帰って来る、少し前のことだった。
鍛冶丸がこのことを堺の片田商店の定例会で報告する。『かぞえ』が頭を抱えた。
なぜ、『かぞえ』が頭を抱えるのか。
スクリューが水の中を回転して、水を後ろに押し出す。それがどのような効率で行われるか、考えるためには数式をたてなければならない。
水にかかる力と『ひずみ』を計算すればいい。そして、力と『ひずみ』の関係は、『バネの式』に従うだろう。
ここで、『バネの式』と言っているのは『フックの法則』のことだ
F=-kX
という式で、原点X=0から離れた距離Xに比例した力がかかる、というものだ。距離を『ひずみ』と呼んでもいい。
これ自体は、簡単だ。
でも、対象が、水という立体だった。そんなの、どうすればいいの。
結局、その場では、スクリュー一回転の方が高効率である理由を答えられなかった。
会議が終わって、昼食が出る。鯵の開き干し、木綿豆腐の冷奴、アオサの味噌汁、糠漬け、白米のご飯などだった。
見ると四角に切った冷奴の下の方がわずかに膨らんでいる。重みで下の方が膨張しているのだ。
『かぞえ』が、醤油のかかった冷奴を睨みつける。彼女の頭の中には、冷奴が小さな賽の目に分割された図が拡がっている。
それぞれの断面にかかる力を計算しよう。しかし、それだとたくさんの媒介子が必要になる。どうしよう。
この媒介子達は、数は多いけれど、独立しているものは幾つも無い。そうか、一括する記号を考えればいいんだわ……。
今日では、それをテンソルと呼んでいる。これを用いることで、流体力学のナビエ・ストークス方程式が表現できる。さらに複素数を導入すれば量子力学を記述することもできる。
一般相対性理論も多数の偏微分方程式を、テンソルを使って一括表現している。
最近流行っている深層学習も二階テンソル、すなわち『行列』を多用している。高等学校の数学の必須課程から『行列』が除かれたのは、まことに残念な事なのである。
もちろん、完全にモデル化することなどは、とうてい出来ない。なので、模型を使って実験しては、数式を変えていくということを繰り返して、まあまあいいかな、と思われる式が出来上がる。
ということで、まあまあ使えるスクリューが出来た。現在なにげなく見ることが出来るスクリューは、複雑な理論的計算と、無数の実験の賜物だ。
石英丸達はスクリュー船に反対だった。船の水線下に穴を開けるなんて、とんでもない。遠い外国や大洋の真ん中で浸水が始まったらどうにもならない、そう考えていた。
鍛冶丸はスクリュー船を支持した。そんな大きな浸水はしない、なぜなら水の圧力は開いている面積に比例するのだから、船体とスクリューの間の隙間を小さくすれば問題ない、という考えだった。
で、結局鍛冶丸が個人で輸送船を一隻建造して、スクリュー船とすることにした。『暗車丸』と名付けた。外輪船と異なり、車が水中に隠れていることから、この名前になった。
鍛冶丸が堺と博多の間を数回行き来させて、特に問題の無い事を確認した。
そして、スクリュー船と外輪船との力比べをしよう、そう提案した。片田の二回目のアメリカ行きの最中だった。
『暗車丸』と、それと同じ蒸気機関を積んだ外輪船で綱引きをしよう、というのだ。両船の船尾を錨用の太い綱で結び、互いに引っ張り合う。そして、どちらが勝つかやってみよう、そういうことだ。
堺の戎島埠頭の前に二隻が反対向きに停泊していた。
梅雨明けの六月だった。日差しが強く、暑い。
片田の乗った『神通』が数日以内に堺の港に姿を見せるはずだった。
石英丸、『ふう』、鍛冶丸、彼の孫達、『かぞえ』などが埠頭に置かれた椅子に座っている。
埠頭の一部に台が置かれ、スクリューの模型が置かれている。一つはガラスの水槽に入れられ、電池とモーターで回転していた。
綱引きするにしても、スクリュー船の方は水上からでは動きが見えないので、鍛冶丸が置いた物だ。回転するスクリューが、勢いよく水を後ろに押しやっていた。
見物人が代わる代わるやって来ては、こんなふうにして船を進めるのか、としきりに感心する。
隣で『かぞえ』がスクリューの方が効率的である理由を、数式を使って説明していたが、そちらには誰も近寄らなかった。彼女が差し出す、数式が書かれた紙を受け取る者はいなかった。
『暗車丸』の艦載砲が空砲を発射した。綱引きが始まる。二つの船が煙突から黒い煙を大量に吐いた。間に渡された錨索がピンッと張る。
そして、『暗車丸』が少しずつ前進する。やがて、それが加速する。外輪船の外輪が海水に逆らって激しく白波をたてる。
圧勝だった。
『暗車丸』がどんどん進み、埠頭から遠くなる。外輪船が後ろ向きに引きずられていった。
埠頭で大歓声があがる。誰も、こんなに圧倒的な差があるとは思っていなかった。石英丸がスクリューの効率性を認めた。ただ、安全性については、もうすこし航海を積み重ねる必要があるだろうと言った。
二隻の船が錨索を解いて、港に戻ってくるまでには時間がかかる。見物人のほとんどは埠頭から去っていたが、鍛冶丸達は残って待っていなければならない。
銅丸が退屈そうにしている。数式が書かれた『かぞえ』の紙で紙ヒコーキを折り、飛ばした。この玩具は片田が持ち込んだものだが、彼らは飛行機を知らない。なので、ヒコーキが何を意味するのか知らずに遊んでいた。
「ふう、暑いな」銀丸が言う。
「そうだな、こうしたらどうだろう」鉄丸が水槽の中のスクリュー模型を取り出し、銀丸の方に向ける。
「お、涼しいぞ。これはいける」銀丸が言った。
銅丸も、こっちに向けてとねだる。
扇風機が発明された。
「爺ちゃ、こうやると涼しいということは、空気も水と同じなのか」
「ああ、そうだ。目には見えないが、空気も流体というものだ」
「じゃあ、銅丸、ちょっと紙ヒコーキを、こっちに飛ばしてみろ」鉄丸が言った。
「いいよ」そういって銅丸が鉄丸に向けて紙ヒコーキを飛ばす。鉄丸がそれに扇風機を向けると、紙ヒコーキの向きが変わった。
「なるほど。確かに、間に何かがあるな。水と同じようなものか」
「ということは、紙ヒコーキにスクリュー付けると飛べるのか」
「出来るかもしれないな」
『かぞえ』が素早く暗算してみる。あの紙の重さは三グラムくらいだろうか。それが軽々と飛んでいる。もしモーターがもっと軽く、強ければ、そして電池を載せなければ、飛べるだろう。飛行機の可能性が出て来た。
しかし、水と違って、空気は力によって圧縮される。それに音速と言うものがあることを彼女は知っていた。また、新しい問題が出て来た。
『かぞえ』がふたたび、頭を抱えた。
外輪船とスクリュー船の力比べは、過去に実際に行われています。
一八四五年四月三日、イギリスでのことです。イギリス海軍本部が主催しました。
同一蒸気機関を搭載したスクリュー船ラトラーと外輪船アレクトが綱引き勝負をして、ラトラーが圧勝しました。




