ダウ船
安宅丸は、二日かけて、港の周囲を歩き、商館の候補地を探した。
港は河口からわずかに上流にある。海岸線との間には、南に下る運河が伸びていた。王宮に行ったときに辿った運河だ。
その運河と海岸線の間は低い砂地になっている。
海岸線と河口、運河に囲まれたところに、寂れた建物があった。聞くと、王の離宮の一つだが、何年も使っていないとのことだった。
カレクトの王に、譲ってくれないかと頼み、金の延べ板二枚で交渉が成立した。
港の倉庫に保管してある商品の一部を商館に移動して商売を始めた。眼鏡は、一箱を除いて、とうに売り切れていたので、シイタケ、鏡、尿素、醤油、山椒などが運ばれた。
安宅丸は、このあとアフリカ大陸のマリンディに行く予定だったので、見本として眼鏡を一箱だけ残していた。
安宅丸が短波無線で大量の眼鏡を発注する。今依頼しておけば、冬の季節風が吹いている間にマラッカに到着するだろう。そうすれば、次の冬にカレクトに眼鏡を持ち込める。
加えて、カレクトに拠点が出来たので、インド洋海域に二隻の船を派遣するように依頼した。
短波無線は、状態が良いときには堺と通信できた。
ここでも、例の『肥料、あり、なし』の畑をつくるので、離宮の前庭の一部を耕させた。
庭の反対側には屋台を置き、地元の米で味噌味の『握り飯』を握り、シイタケと鶏肉のスープと一緒に出した。干しシイタケの販促のつもりだ。
船の料理長が、ここの米はパラパラとしていて握りにくい、とこぼす。
握り飯とスープが無料で配られ、試食してくれた客には、尿素の入った小袋を渡す。袋には使用方法が書かれ、自宅の菜園で試してほしい、と大きな文字が添えられていた。
離宮の正面は運河側である。そこから小舟で運河を渡ると港に入ることができる。港の周囲には露天の造船所が幾つもあり、インド洋を行き来する『ダウ』という形式の船を建造している。
『ダウ』の大きさは様々で、近海の漁に使うものから、大洋を渡る二百トンもありそうな貿易船まであるが、その製造方法は共通している。
『縫合船』という構造をしているということだ。
チークなどの地元の木材で板を作り、それをヤシの繊維で作ったロープで結び合わせて造る。竜骨も肋材もない。
なので、波間を航海するダウは、波にあわせてしなる。『川内』の船尾楼から横を行くダウを眺めると、心もとないように見える。
しかし、当のダウの乗組員は涼しい顔である。なんとも思っていないようだった。
現在のインド洋のダウは、西洋の技術を取り入れて竜骨を持っている。安宅丸が見ているような古い形のダウは、今や現地でも見ることが出来ない。
同じような縫合船で、おそらく唯一残っているのは、『クフ王の船』とか、『太陽の船』と呼ばれている、エジプトのピラミッドの近くで地中から発見された船だ。
安宅丸が、通訳と水先案内人を伴って、小舟で造船所に向かった。彼も元は造船技術者だったので、関心がある。
「しなるわけだ。竜骨も肋材もない」安宅丸が呆れるする。
「これで、大丈夫なのか」安宅丸が尋ねる。通訳が翻訳する。
「しなるから、大波でも大丈夫なんだ。硬い船は壊れやすいし、修理も難しい」
そういうものなのか。安宅丸が不思議がる。彼の造船指針は、片田が作った帆船模型が出発点だ。片田は造船に関する知識があるわけではなかったが、彼の時代の船を真似て模型を作っていた。
楔で丸木を割り、手斧で表面を平らにして、板にする。このあたりは同じだ。同じだが、設計図も型紙も無いようだった。
「設計図というか、手本のようなものはないのか」
「そんなものはねぇ。毎日毎日この仕事をしているんだ。体が覚えている」
石灰をまぶした紐を弾いて、板に直線を引く。それに合わせて鋸で板を切る。半分出来ている船に板を当てると、ぴったりの大きさだった。
“すごいものだな、そうとう熟練している”安宅丸が思う。
錐に弓弦を回して引き、船体に穴を開ける。いま取り付けた板にも穴を開け、両者をヤシロープで結びつける。そのようにして、どんどん船体が出来上がっていく。
板と板の隙間や、ロープを通した穴の隙間は、あとから、繊維くずで埋めてしまうのだそうだ。
「俺たちも、俺たちの父親も、祖父さんも、ずっと昔からこんなふうにして船を作ってきたんだ。目を瞑っていても作れるだろう」
そういって、船大工達が笑う。
確かに、二百年前、マルコ・ポーロは往路のホルムズで『ダウ船』を見ている。さらにさかのぼる事一千二百年、西暦一世紀の『エリュトゥラー海案内記』第三十六節でも縫合船について書かれている。
彼らの言うことは、正しいのだろう。
カレクトで三週間程滞在した後、商館に数名の者を残し、『川内』はアフリカ沿岸のマリンディに向けて出港する。現代のケニア、モンバサの近くにある港だ。
現在は人口数万人の小さな港町だが、この当時はイスラム商人が多数出入りしていて、アラビア海の西の玄関口といってもいい港だった。鄭和の南海遠征の到達点であり、ヴァスコ・ダ・ガマがインドを目指してアフリカ沿岸から離れたのも、この港だった。




