前掛け (まえかけ)
西暦一四九二年の二月。コロンブスがカトリック両王と交渉し、片田がパナマで現地のアメリカ人への人痘接種に悩んでいた頃。
日本の堺、片田商店では、何をしていたのか。
「お父、塩酸と硝酸を混ぜると、王水が出来て、金や白金を溶かすんだろ」風丸が父親の石英丸に尋ねる。風丸は三十三歳になって、子供もいた。
「ああそうだ。一度だけやってみたことがある。金箔を入れると、王水が金色になる。確かに金が溶けていた」
「硝酸と硫酸を混ぜると、どうなるんだろう」
「さて、それはやってみたことがないな。どんなことができるんだろう。風丸、やってみるか」
「えっ、今やるのか。実験室は改装中だぞ、番匠(大工のこと)が仕事中だ」
「こっちに持ってきてやればいいだろ」
「それ、おっ母に怒られるぞ、『勝手』(台所)で実験やるのは禁止だ」
『おっ母』とは、『ふう』のことだ。
「『ふう』は、片田村の『かぞえ』の所に出かけてる。夜にならないと帰ってこない。大丈夫だ」
「大丈夫だって、バレたら大変だぞ」
「いいから、硫酸と硝酸の瓶を取りに行こう、あと、幾つかの試料もな」
そういって、石英丸と風丸が実験室に行った。二つの酸の瓶と、試料を持っただけで二人の両手が塞がる。ビーカーやシャーレ(ガラス皿)などを持ってくる余裕がない。
「まあいいか、あとは『勝手』にある物を使えばいい」石英丸が言う。
「それ、バレたら、おっ母が激怒するぞ」
「ちゃんと洗っておけば大丈夫だ。帰ってくるまでには乾いているだろう」
石英丸が、細いガラス管を硫酸に入れる。ガラス管の上の口を親指で押さえて、すこしの酸を取り、醤油皿に落とす。硝酸も同じようにする。
「両者を混ぜても、反応は起きないようだな」
「そうだね」
「よし、大丈夫そうだ。風丸、お茶碗に二つの酸を入れて混ぜてみろ」
「父ちゃの茶碗でいいよな」
「ああ、それでいい」
風丸が言われた通り、硫酸と硝酸を少しずつ茶碗に入れた。現代でいうところの『混酸』が出来る。
石英丸が、まず金箔を入れてみる。これは、溶けないようだった。
「じゃあ、次は白金片を入れてみるか」そういって、石英丸が白金を入れてみる。これも変化がなさそうだった。泡も出てこない。
「なんか、駄目そうだな。次は何をいれてみるか」石英丸がそう言って白金片を取り出そうとしたときに、小指と薬指が茶碗の角に触れて、碗が倒れる。
「あ、まずい」そういったが手遅れだった。
『ふう』が魚や野菜を切ったり、調理をしたりする台の上に混酸が拡がる。石英丸が手近にある布で、いそいで酸を拭った。
「あっ、それは」風丸が言う。
「ん、これが、なにか」石英丸がそう言って自分の手の中にある布を見る。『ふう』が調理の時に使う『前掛け』(エプロン)だった。
「あちゃ、これはまずいな」石英丸が言った。
「それ、おっ母が帰ってくるまでに乾かしておかないと、怒られるぞ」
「そうだな、どうするか。そうだ、囲炉裏の所に掛けて乾かすか」まだ冬だったので、囲炉裏に火が入っている。
「火から離しておいたほうがいいと思うよ、煙の臭いがすると、気付かれる」
「わかった」そういって石英丸が囲炉裏から少し話したところに衣紋掛けを拡げて、『前掛け』を掛けた。
硫酸と硝酸の混合液が、『前掛け』の木綿と反応する。やがて、水分が蒸発して乾燥する。囲炉裏で赤くなった熾が爆ぜる。
きわめて微小になった熾が空中を漂い、『前掛け』に付いた。
「バフゥン!」
すごい音がして、『前掛け』の一部、酸の付いたところが消滅した。衣紋掛けが倒れていた。
醤油皿と茶碗を洗っていた二人が振り返ると、斜めになった衣紋掛けには、所々焦げた『前掛け』の残骸がぶら下がっていた。
「なっ、何が起きたんだ」
「わからないが、『前掛け』が半分無くなっている」
「こりゃあ、もう、駄目だな。おっ母にバレるのは、まちがいない」風丸が唸った。
硫酸と硝酸を混ぜた『混酸』は、窒素原子一、酸素原子二で構成されるニトロ基というものを、さまざまな物質に付加させることができる。木綿の繊維はセルロースという炭水化物だが、これにニトロ基を付けるとニトロセルロースになる。『綿火薬』ともいう。
史実において、綿火薬は一八五四年、スイスに住むクリスチアン・シェーンバインによって偶然に発見された。石英丸の話は、そのときの状況を、ほぼそのまま使っている。台所を使って実験していたことも、妻のエプロンで混酸を拭ったことも、それをストーブで乾かして爆発させたことも、そのままである。
シェーンバインと石英丸が、なぜ酸のついたエプロンを洗わなかったのか、それは、今となってはわからない。もしかしたら、妻にバレることを恐れて、一刻も早く乾燥させたかったのかもしれない。




