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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
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一四九〇年の世界

 この後、物語の舞台が世界に広がっていくので、このあたりで当時の世界を一望しておくことにします。物語が進んで、聞きなれない国名が出てきたときに参照するためです。

今回はアジアから地中海まで、次回がヨーロッパについて教科書的なことを書いておきます。

 興味の無い方は、とばしてください。


 日本は応仁の乱が終わったものの、戦国時代が始まった。奈良平安時代以来の皇室、および皇室に任命された征夷大将軍の権威は失墜した。武士、すなわち軍人が割拠支配する国になっている。

 各地で地方の有力者が台頭し、地域の大名となっていく。戦国時代という名前であるが、一方では農業、手工業、商業が発達しているのは、これまで見て来たとおりだ。

 禅宗を受け入れ、枯山水、水墨画など、それまでの王朝文化とは異なる新しい日本文化も始まっていた。


 大陸では明王朝の中興ちゅうこうの時代だった。明の開祖、しゅ氏の血統を頂点として、中央は六部りくぶ、地方は里甲制りこうせいという官制かんせいにより、中央集権国家として盤石ばんじゃくの体制にある。

 明が滅亡するのは、百五十年後の一六四四年である。


 台湾たいわんとフィリピンは、まだ歴史に現れてきていない。ここで歴史というのはつぎつぎふみ、すなわち、文章として記録されたものを言う。

 現代ならば、地政学ちせいがく的に重要な位置を占めるのであろうが、海軍の無い時代であり、歴史の闇の中に眠っている。




 東南アジアは、『交易の時代』に入っている。この言葉は、東南アジア史学者アンソニー・リードが提唱した。東南アジアにおける十五世紀半ばから十七世紀末のことを言う。リードの本は日本語にも翻訳されているので、図書館などで目にすることができるだろう。


 ベトナムの黎朝れいちょうはすでにミンから独立し、占城チャンパを支配下に置いている。貿易はあまり盛んではなかったらしい。それでも絹、生糸、陶磁器を輸出し、中国から硝石しょうせきを、マラッカから硫黄を輸入していたというから、チャンパとの戦争では、大量の銃砲を用いたのだと思われる。


 古代の東南アジアでは、文明は内陸部で発展した。ベトナムのハノイ、カンボジアのアンコール、ミャンマーのバガン、タイのスコータイ、スマトラのパレンバンなどの古都はいずれも内陸部の河川流域にある。

 人々はそこに灌漑設備を建設し、米を栽培した。

 海岸部は、水害や地震による津波、泥濘地でいねいち、マラリアなどの疫病で、古代には住みにくい場所だった。

 古代日本の文明が奈良盆地で芽生え、時代と共に河内平野を開発していったのと似ているかもしれない。


 ところが、『交易の時代』に入ると、海運に従事するために海岸部に進出した方が有利になる。そこでスマトラ島北部のサムドラ・パサイ王国、マレー半島南部のマラッカ王国など、海岸沿いに貿易立国の王国が出現してくる。

 彼らの商売の相手は、北の中国やベトナム。絹や陶磁器、沈香などを算出する。東の香辛料産出国。西のインドやムスリムだった。

 交易には一定のルールがあったほうが便利だった。そこでイスラム法による商取引を取り入れる。商売の便益べんえきの為に国自体がイスラム教を受けいれるところもあった。

 彼らは単に中継貿易をするだけではなく、スマトラ島やジャワ島の海岸部を開拓して、コショウを栽培した。




 インド亜大陸あたいりくの北部はイスラム教国家になっていた。南部のヴィジャヤナガル王国がヒンドゥーの国として孤軍奮闘している。

 この国はインド南西部の胡椒産地、マラバール海岸地帯を有していた。加えて、この一帯はカリカット(コーリコード)やマンガロールなどの良港がある。

 ヴァスコ・ダ・ガマの航海記録によると、カリカットではイスラムとヒンドゥーの商人が相互に商売をしているようだ。

 ここは、やがてマラッカとともにポルトガル人に狙われることになる要衝ようしょうだ。


 インドの西はアラビア海になる。そして、そこに二つの深い湾がある。東がペルシャ湾で、西が紅海だ。

 ペルシャ湾はティグリス川とユーフラテス川という大河が流れ込んでいて、バグダード、さらに内陸まで水運があっただろう。

 ティグリス川の先は、山を越えると黒海こっかいのトレビゾントがある。

 ヴェネツィアが第四回十字軍を利用してコンスタンティノープルの東ローマ帝国を攻略させたのは、このルートの確保が目的だった。

ユーフラテス川の先にはアレッポからイスケンデルンへの陸路を経て地中海に出る。

 このルートは、古来もっとも確実なルートとされていた。バグダードは交易で栄え、後世『シンドバッドの道』と呼ばれることになる。

 アラビアン・ナイトのシンドバッドはバグダードに邸を構え、バスラ港から貿易の旅に出たからだ。

 しかし、このルートはしだいに衰え、さらにモンゴル帝国により、バグダートは一時廃墟となる。

この時代にはカイロがバグダートにとって代わっていた。


紅海の先端は、スエズで、そこから北に百六十キロメートル程陸路を行けば、カイロをかすめて地中海に出る。現在はここにスエズ運河があり、船でインド洋と地中海を行き来できる。



 インドからスエズ一帯は山と砂漠の地である。当時はティムール朝、白羊朝はくようちょう、マムルーク朝などのイスラム国家があった。


 東ローマ帝国(ビザンツ帝国)は、一四五三年に滅亡しており、黒海と地中海の間には、やはりイスラム教国であるオスマン帝国が成立していた。

 しかし、地中海に出てしまえば、あとは海路でイタリアのヴェネツィア、ジェノバなどの港に行くことができる。

 ヴェネツィアは、早くも十世紀後半から、イスラム諸国と商業条約を結び、絹や陶磁器、コショウなどのアジアの産物をヨーロッパに運んで栄えた。


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