マラリアの特効薬(マラリア の とっこうやく)
延徳二年(西暦一四九〇年)の夏の終わり。
青空には、秋の雲がうっすらと、刷毛で掃いたようにながれていた。
堺の茜丸の邸に、茸丸がいた。座敷から見える庭の隅に彼岸花が咲いている。
「今回は揮発液で抽出したものだけを持ってきました」茸丸が言った。
「そうですか、それは助かります」と、茜丸。
茸丸が持ってきたものは、『アヌマ』の茎や葉から抽出した抗マラリア薬だった。
マラリアは、古代の日本にもあった。古典にも出てくる『瘧』という病が、マラリアだと言われている。蚊を媒介するので、夏の病だったのだろうが、当時は蚊を介しているとは知られていなかった。
それが、東南アジアと頻繁に交易するようになったためか、堺では通年で流行り始めた。
春に種を撒いた『アヌマ』が芽を出し、三十センチ程の背丈になったとき、茸丸が葉の一部を採取して、最初の抗マラリア薬を作った。
東南アジアでは、この葉を茶のように煎じて飲む、とされていたが、それがもっとも効率の良い服用法なのか、それはわからない。
茸丸は、『アヌマ』の葉を、水、湯、酒精、揮発液それぞれに漬けて、成分を抽出した。
夏にそれを茜丸に届けた。茜丸は水、湯で煎じた物はそのまま患者に与え、酒精、揮発液は水で割って患者に与えた。
酒精漬は焼酎の水割りのようなものである。揮発液、ジエチルエーテルも人間が飲むとアルコールのような効果がある。ただしエチルアルコールより少し毒性が強いので、一度に十グラム以上服用すると死ぬことがある。エチルアルコールの致死量は数十グラムから百グラム程度だ。
それらを三日熱患者に与えてみると、揮発液で抽出した物が、抜群に効果があった。重症化して意識を失った患者でも、浣腸の要領で直腸に薬液を注入すると、息を吹き返す。
“これは、素晴らしい薬だ”、茜丸は直感した。
『アヌマ』の揮発漬けをもっと送って欲しい、片田村の茸丸に頼んだ。
動物の腸は、様々な物質を取り込む機能を持っている。人間が食べた食物は、小腸が各種栄養分を吸収し、大腸が主に水分を吸収する。
二〇二四年のイグ・ノーベル賞生理学賞では、『多くの哺乳類が肛門呼吸できることの発見について』という研究が受賞した。
ドジョウが水面で空気を飲み込み、水中で肛門から空気を排出する習性があることからヒントを得たという。
冗談のような研究、と思われるかもしれない。しかし、新型コロナのような肺炎で肺にダメージを受けた患者に、腸から十分な酸素を供給できれば、人工呼吸器の代替になるかもしれない、素晴らしい研究だと思う。
茜丸の依頼を受けての、今日の茸丸の訪問だった。
「これで、どれほどの患者が助かる事か、ありがとうございます」茜丸が言った。
「今回の物は、『アヌマ』の花が咲いた時に採ったものです。最初の物と効き目が異なるかもしれません。投与したときの結果を教えてくれれば、改良できます」
「承知しました、結果は逐一お伝えします」
茸丸の観点はセンスが良かった。『アヌマ』の有効成分、アルテミシニン濃度は開花初期に最も高くなるとされている。
「ところで、この揮発液ですが、どうも麻酔薬に使えそうなのですが、簡単に作れるものでしょうか」
「簡単ですよ。酒精に硫酸か塩酸を加えて、少し、摂氏百三十度程度に加熱すると、簡単に出来ます。鍛冶丸のところで安く売ってくれるでしょう」
この時まで、茜丸達は、笑気ガスを麻酔薬として使っていたが、麻酔薬は、いろいろな種類があった方が良い。
茜丸による三日熱治療の成果については、片田も、安宅丸も、おおいに喜んだ。特に安宅丸は部下に三日熱患者を大量に出していたので、その憂いが除かれる。
「十一月になって、季節風が吹き始めたら、さっそくシンガプラに持っていくので、大量に作ってくれ」そう言って茸丸に治療薬を発注した。
片田にしても、新大陸に到達したのはよいが、そのどこにキナノキが生えているのか、詳細な位置までは知らない。それを探すことを考えたら、ここで新たなマラリア特効薬が見つかったのは喜ぶべきことだった。何年か節約できるだろう。
「これで、マラッカより西に航海することができる」安宅丸が片田に言った。
「そうか、それはよかった。ところで、安宅丸のところに語学に優れた子供がいる、と聞いているが」
「シンガか、そうだ。いろいろな言葉をすぐに覚えてしまう」
「シンガという名前なのか。その、シンガをしばらく貸してくれないか」
「シンガがいないと、不便だが。何に使おうとしているんだ」
「アメリカの言葉を覚えてもらおうと思っている」
「そういうことか」
「ああ、マラッカの西は、インド、アラブに行くことになるだろうけれど、その通訳は現地でも見つけることができる」
「まあ、そうだな」
「アメリカの言葉の通訳はいないんだ」
「それでは、しかたないな。あいつは名目上、俺の奴隷ということになっているので、短期の貸与という形にしよう。実際には、俺が保護者のようなもんだがな」
「そうしてくれると、助かる」




