小さな人
片田達がアメリカ大陸に到着した頃、安宅丸はマラッカ王国の宮廷にいた。
旧正月明けの参内で、国王に新年の賀を寿ぐためだった。この地域は中国の影響もうけている。
「昨年も、シンガプラの地を使わせていただき、ありがとうございます。今年の租税を持参しましたので、お収めください」
安宅丸達は、シンガプラ(シンガポール)を租借地として、マラッカ王国に租税を払って借りていた。
「よく参った。今年もよろしく頼む。そち達のおかげて、シンガプラ周辺の海賊がすっかり鳴りを潜めている、助かっておるぞ。わしの王国は貿易で成り立っておる。海賊が横行しては、商人達が寄り付かない」
「そのように言っていただけると、幸いです」
シンガが通訳をしている。
安宅丸が話しているのは、マラッカの王、マフムード・シャーである。この時六十歳ほどになる。
王の右側には宰相トゥン・ペラク、左側には提督のハン・トゥアが並んでいる。
ここは王宮の謁見の間で、正面に王と二人の幹部が安宅丸達に面して座っており、安宅丸の左右には、重臣や宗教指導者が並んでいる。
トゥン・ペラクは、前王のときから、すでに三十年以上も宰相を続けていた。マラッカ周囲の港湾を支配下に置いたのは彼の功績であり、マラッカ王国歴代のなかで最も優秀な宰相とされている。
ハン・トゥアは、いまでもマレーシアでは人気のある海軍提督で、道路や駅の名前にもなっている。
二〇一一年には、現地のキットカットのテレビCMにもなっている人物で、Youtubeで探せば出てくる。
「シンガプラは、当マラッカ王国の創始者が最初に納めた土地である。あそこが安寧であることは、喜ばしい事である。税を取るどころか、褒美を出したいくらいだ。なにか、望みはあるか」
「褒美などと、恐れ入る次第です」
「では、何か、困りごとはないのか」
「困りごとですか」
「そうじゃ、何かあるであろう」
ダメ元で、言ってみるか、安宅丸が思った。
「実は、三日熱という病で困っております」
「三日熱とな、あぁ、あの三日毎に熱を出す病のことか」
「はい、私の国の民は、あの病に弱く、人が租借地に居つきません。人手不足で困っております」
「ヨモギ湯は、試してみたのか」王が尋ねる。
「ヨモギ湯とは、はて、そのようなものは存じませんが」
「知らぬのか。ワディナ婆、此の者達にヨモギ湯の事を教えなかったのか」
ワディナ、すなわちマレー語で守護者あるいは保護者という名を持つ老婆がギクッとして王の方を見る。彼女はこの地方の宗教指導者の一人だった。
その宗教というのは、古来の土着宗教にヒンドゥー教や上座仏教が混じったものである。
宗教の中心はスマンガットとローという二種類の精霊だった。この精霊は世界にあまねく浸透していて、日常の生活を支配しているという。
ローは死者を含む森羅万象に宿る精霊で、現世をつかさどる。スマンガットは動き回る危険な精霊だが、いざという時には人間の体に宿り、その危機を救うとされている。
「この者達は、余所者じゃ。なんでヨモギ湯を教えねばならぬのか。三日熱にでも、なんでもなるがよいわ」
ワディナ媼が言った。
「余所者ではあるが、海に平和をもたらした。相応の礼を持って接すべきではないか」王が言う。
「なにが、相応の礼じゃ、こいつらは、あのムスリムと一緒じゃ。この地に災いをもたらすだけじゃ」
「黙れ、客人に無礼であろうが」王が一括し、媼が黙った。
「この者達の病人にヨモギ湯を処方するように、手配してやれ」
王が言うが、ワディナは、“黙れ、といわれたから、黙っておるわい”、そう目で語り、手配するとは言わなかった。
「やれ、困ったものじゃ。客人、そのヨモギ湯というのは、西の島の山中で採れるヨモギを煎じて飲む薬なのだが、そこは、この婆が奉ずる宗教の聖地なのじゃ。なので、婆の寺でしか、手に入らぬ」
「我々の国は、昔は奥地で稲を栽培して暮らしていた。海岸地帯は三日熱や、水害などで暮らしに向いていなかった。ところが海外との貿易が盛んになってな、海岸沿いに出てこなければならなくなったのじゃ。そのときにヨモギ湯が役に立った」
「この男が、直接聖地に取りに行くのであれば、譲ってもよいぞ」ワディナが言った。
「何故、そのようなことを言う」
「もし、この男が彼の地にたどり着けるのであれば、スマンガットが宿ったということだ。精霊に認められたということになる」
これは、罠だな。王も安宅丸も思った。しかし、熱病の薬が手に入るチャンスだった。薬はぜひとも手に入れたかった。
片田は、キナノキとかいう三日熱の特効薬を手に入れるため、アメリカまでの危険な航海をしている。それに比べれば、たやすいことだ。
「行きましょう」安宅丸が言った。
「行くのか」王が驚いた。
「私の手の者を同行させましょう」ハン・トゥア提督が言った。陸戦隊のようなものを持っているのだろう。
「では、よかろう」王が言った。
「マラッカの対岸にある土地は知っておるな」王が安宅丸に言った。
「はい、スムトラまでは行ったことがありますから」
スムトラとはスマトラ島の北端にある王国で、インド、イスラムへの窓口となって栄えている国だった。スムトラという国の名前が、スマトラ島全体を表すようになった。
「対岸を北上し、四番目の川の河口にタンジュン・バライという村がある。そこで小舟に乗り換えて二日川をさかのぼるのじゃ」
安宅丸はその川を知っていた。
「両側に山が迫ってきたところに、バンダル・ポエラウという村がある。そこからは徒歩じゃ。川沿いに山を越えるとトバという名前の広い湖がある。そこまで辿ってきた川はこの湖から流れ出ている」
「湖から川が流れだすところに、パンタイ・パサイという村がある。そこまでも、二日かかるじゃろ」
「バンタイ・パサイの村人に頼めば、船を出してトバ湖の中にあるサモシール島に連れて行ってくれるだろう。この島が聖地じゃ。道中の三つの村には、わしのほうで手紙を書いておくので持参するがいい」
「島にいったら、誰に会えばいいのでしょう」
「島に住んでいるのは、セマンという『小さい人』だ。彼らが聖地を守っている。セマンの長に会って、直接ヨモギをもらってきなさい。セマンの長にも手紙を書くことにしよう」
「わかりました」
「もし、客人がヨモギを持ち帰ってきたら、婆は処方を手配するのだな」王がワディナ媼に言った。
「よろしかろう、本当に持って帰ってくればのぅ」ワディナが言った。




