マラッカ
東南アジアの歴史において、十五世紀から十七世紀初めくらいの時期を『交易の時代』という。その初期に繫栄したのがマラッカ王国だった。
スマトラ島に住んでいたパレンバン王族の一人でシンガポールに拠点を持っていたパラメスワラという男が、ジャワ島のマジャパヒト王国の攻撃から逃れてマラッカ海峡を渡り、現在のマラッカの位置に建国したと言われている。
当初は弱小国家で、南のマジャパヒト王国と北にあるアユタヤ王国、現在のタイに挟まれ、かろうじて存立している有様だったという。
しかし、パラメスワラがこの地を選んだのは、偶然だったかもしれないが、後にすばらしい地の利を得た土地であることがわかる。
転機が訪れたのは、鄭和の南海遠征だった。一四〇五年に鄭和の艦隊がマラッカ海峡に現れると、いち早く朝貢国として名乗りを上げる。
マラッカは鄭和艦隊の補給基地となり、朝貢国として明の保護下に入る。
マラッカは十五世紀初期にイスラム教を奉じることになる。その時期はよくわかっていない。よくわかっていないのには理由がある。
初代のマラッカ王がパラメスワラで、二代目がイスカンダル・シャーというが、この二人が親子であるのか、同一人物なのかで、意見が割れているからだ。
パラメスワラという名前は、サンスクリット語で『至高の主』を意味する。シヴァ神の別名でもある。ヒンズー教的な名前だった。
二代目のイスカンダル・シャーはアレキサンダー大王にちなんだ名前であり、ペルシャ的、あるいはイスラム的名前であった。
マラッカの歴史を叙述したマレー年代記は、パラメスワラが七十二歳の時、イスラム国家パサイの王女と結婚したときに改宗し、同時に名前をイスカンダル・シャーと改名したとしている。
十六世紀のポルトガルの記録では、パラメスワラの後を継いだのがイスカンダル・シャーだという。
ともかく、十五世紀初頭にマラッカ王国はイスラム教圏にはいったらしい。
次に、マラッカの地理的位置が恵まれているということについて。
今、あなたが福建省の商人で、銀百貫を持っていることにしよう。
あなたは、福建の市場で銀百貫を絹百単位と交換してインドに輸出し、インドで絹百単位と胡椒百単位を交換して福建に帰って来て、福建の市場で売ることにした。
ここでは、話を簡単にするため、
福建では、絹一単位は銀一貫と交換できる、
福建では、胡椒一単位は銀五貫と交換できる、
インドの胡椒産地、マラバール地方の港では、絹一単位は胡椒一単位と交換できる、
とする。
一回交易すると、銀百貫が、銀五百貫になる。これにかかる時間はどうであろう。
当時の貿易は風頼みの帆船なので、貿易風が重要になってくる。東シナ海やインド洋では、冬には北、北東、東の方向から風が吹いてくる。
夏はその反対で、西、南西、南の方向から風が吹いてくる。
従来中国のジャンク船は、この航海に最低でも一年程をかけていた。風に恵まれなければ二年かかることもあったという。貿易風が半年ごとに交代するからだ。
この貿易条件を前提にして、中間のマラッカに中継貿易港が出来たとする。
インドの商人は、マラッカまで胡椒を運ばなければならない。また、マラッカの関税や港の使用料などの費用も発生する。当然銀で買う時にはインドで買う時よりは高くなる。
しかし、この事情は絹をマラッカに運んでいった福建商人も同じである。
なので、
マラッカでは、ほぼ絹一単位と胡椒一単位の交換ができる。航海距離や日数で、多少の上下はあるが。
ということになる。繰り返すが、銀では、こうならない。銀で買うと、マラッカでは産地より割高になる。
福建からマラッカまでは、どれくらいの日数がかかるだろう。鄭和の遠征に同行した、馬歓の『瀛涯勝覧』による。
福建から占城国までは、『福建の五虎門から船を出し、西南に向かい風向がよければ十日ばかりで着くことが出来る』。
さらに、占城から満剌加国までは、『占城から真南に向かって風がよければ船で八日ばかりで竜牙門に着く。竜牙門より西に向かって二日ばかりで着くことが出来る』。
と、されており、二十日程である。
冬の季節風が終わる頃、二月の終わりか三月初めに福建を出港して、四月初めまでにはマラッカに到着する。そこで絹と胡椒を交換して、五月に始まる夏の季節風に乗って六月初めに帰ってくることが出来る。三か月で帰ってきたことになる。
以前は十二カ月近く、運が悪いと二十四カ月近くかかっていたものが、マラッカを中継地にすることにより、四分の一、八分の一の期間で銀百貫が銀五百貫になる。
いわゆる、資本の回転率がすばらしく向上することになった。
加えて嵐や海賊に出会うリスクも航海期間の短縮に比例して下がっていくであろう。
もちろん、このようなことは長続きしない。より手軽に入手できるとなると、競争者が増え、絹も胡椒も消費地での価格が下がっていくことになるからだ。
加えて、少し前十五世紀初頭より、インドの特産品であった胡椒を、スマトラ島北部で栽培する試みが始められており、マラッカはこの取引を独占した。
西暦一四九〇年頃のマラッカ王国は、その絶頂期にあったと言ってもいいだろう。その王、マフムード・シャーの前に、安宅丸、菊丸、シンガの三人が立っていた。




