翡翠色(ひすいいろ)
『神通』はドレイクス湾の一番奥、西端に停泊していた。破損した前檣を修理している。隣に『あめりか丸』が並んで停泊している。この艦と『那珂』は嵐で被害を被っていなかった。
二艦は、荒天の予兆があったとき、前檣の帆を荒天用のものに変えていたので、嵐の最中に帆を破られることがなかった。
『神通』の金口三郎艦長は自分のミスを認めた。
それ以外の嵐による被害としては、三艦がそれぞれ曳航してきた二百石(三十六トン)級の輸送船が三隻とも失われたことだ。いずれも無人で曳航してきたのだが、嵐が始まった時に切り離している。
ここから先は、アメリカ大陸の西岸に沿ってパナマまで南下していく予定だった。この区間は卓越した風がない。片田は機走を予想していた。
『神通』と『那珂』の船倉には、ここまでの航海で食料を消費した分の余地があった。そこに『あめりか丸』に載せて来た石炭を積み込むことにした。
『那珂』は、北東に広がる河口を遡り、真水を補給しに行っていた。
幸い檣が折れる以外の損傷は見つからず、船底の浸水量もわずかだった。
煮沸した樽に詰めた沸騰水は、四十日の航海の間、劣化しなかった。なので、出来ればここで給水する水も、同じように処理したかったのだが、付近に住居があるのでは、無理だろう。
案の定、真水を補給して戻ってくる『那珂』は、多くの丸木舟を従えていた。この土地の住民たちだろう。
「あの有様では、沖に出るしかありませんな」金口三郎艦長が言った。
「そうだな。『那珂』に、そのまま沖に向かうように打電してくれ。こちらも沖に出よう」
沖で一晩を過ごし、翌日は『神通』が真水を補給しに行き、『那珂』が石炭を補給した。その夜もドレイクス湾沖で錨を降ろし、翌朝艦隊はパナマに向かって出航した。
風は順風だったが、航海を通じて弱かった。無風の時には外輪を使って機走し、三十日余りでパナマ付近にたどり着いた。
南に口を開いたパナマ湾の西部に、さらに小さな湾がある。この東に開いた湾をパリタ湾という。
パリタ湾を望む陸地のあたりに、多くの煙が立っていた。かなり大規模な集落があるようだ。片田は、この集落を、最初に接触する村に定めた。
そして、東に針路を変更する。
片田が現代から持参した高校参考書の地図にかろうじて豆粒のように掲載してあった諸島、ベルラス列島を目指す。パナマ湾の中に浮かぶ島々だった。
この列島には、おそらく住民がいないであろう。
最も西の島、後にサン・ホセ島と呼ばれる島を一周して、人跡が無いことを確認する。この島は、都合の良いことに西の湾の奥に川があった。真水にも不自由しなさそうだ。
片田は、この島を入植地とすることにした。
河口を持つ北西に開いた湾の奥に砂浜があった。この砂浜は外海からは隠されていた。そこを上陸候補地とした。
「建設を開始する前に、対岸の湾の住民が友好的かどうか、確認しておかなければならない」片田が言った。
「どうやってですか」
「アイヌの時と同じだ。贈り物を贈って確認する。明日にでも『神通』でパリタ湾まで航海しよう」
夜、片田は自分の腕に打たれた種痘の痕を思い出す。子供の頃に接種したものだ。やはり、自分が彼らに接触するのが、一番安全だろう。
翌日の昼下がり、パリタ湾に『神通』がいた。艦から連絡艇が降ろされ、岸に接近する。見たことも無いような巨大な船が現れたことに驚いた現地人達が、浜に集まってくる。
連絡艇には六人の男が乗っていた。四人は櫂を操作している。船首には片田がいた。最後の一人は船尾に座り、傍らに小銃を置いていた。
連絡艇が砂浜に乗り上げる。現地人が遠巻きにしていた。片田が砂浜に白い綿布を拡げ、その上に斧や鉈、小刀などを置く。
さらに釣針の入った袋、縫い針の袋、綿布、糸などもおいた。
最後に二十個程の平たい缶を置く。そして、後じさりに艇に戻った。離岸する。
艇が岸から離れると、人々が片田の置いた物に集まってくる。斧や鉈を見た男たちが喜ぶ。彼らが片田達の方を向き、道具を指し、さらに自分の胸を指した。
“くれるのか、これを”という合図だろう。
片田が首を縦に振って頷く。首を縦に振るのが、同意の合図になるのかどうかはわからなかったが、どうやら通じたようだ。
彼らがさらに、釣針や縫い針の紙袋を開けて、中を確かめる。使い方は承知しているようだった。さらに布の手触り、糸の強さなども確かめた。
最後に二十個程置かれた缶に手を出す。これはなんだろう。
片田が艇の上から、呼びかける。彼らが片田の方を向いた。片田は手元の同様の缶の蓋をねじって、明けて見せる。
彼らも同様にしてみた。蓋が開き、なかに翡翠色の練り物が現れる。“これは、いい色だが、なんだ”。
片田が、もう一度呼びかける。そして、缶の中の練り物を指で掬い、自分の両目の下に、横長に塗り付けた。ちょうど眼窩の縁の出っ張りの部分だった。
スポーツ選手のアイブラックのような要領である。
浜に集まった者たちのなかで、勇敢な一人の男が、片田の真似をして、目の下に塗り付ける。周囲の者達が、はしゃぐように笑った。そして、何人もが缶に手を伸ばして、自分の目の下に塗り付けた。
これが何だか、彼らはわからなかったが、とにかく、“かっこいい”。
“成功だ”、片田が思った。
缶の中身は、鉛屋が磨り潰した翡翠の粉と荏胡麻油を練った物だ。
このあたりの住人は翡翠色を好むはずだった。これは現代の図書館で見たマヤ文明遺跡などのカラー写真から知った。
今回の物は、翡翠粉と油だけだが、来年からは、これに天然痘患者から採取した瘡蓋などを混ぜる。
彼らは新規なファッションだ、と思うだけかもしれないが、知らぬうちに種痘を受けることになる。
堺の市場埠頭で決意したときには、まだ架空の考えだった。しかし、その後の片田村の種痘で確信した。
彼等の内の幾人か、百人か、千人か、数千人かは、天然痘で死ぬかもしれない。それでも史上スペイン人達がもたらした物よりは、はるかにましになるに違いない。




