キャプテン・ドレークの真鍮板(キャプテン・ドレーク の しんちゅうばん)
三艦が嵐から脱した。
二度と嵐に巻き込まれないように、東に針路を取って二日、彼らの前に陸地が見えた。
まず、三角形の岬が見える。近づくと岬の裾に白波が立っている。次いで岬の左側に長い砂浜が伸びているのが見える。
岬の右側は白い崖になっていた。
船団が岬の右側を進むと、裏側に広い湾が拡がっていた。湾内の波はおだやかで、停泊して艦を修理するのに適していると思われた。
湾内にも砂浜が拡がっているが、一か所広い河口がある。
その河口の左右に、幾筋もの煙が立っている。住民がいると見られた。
現地の住民に接触するのは避けなければならなかった。なので、河口から離れ、湾の最も西側に投錨した。周囲の半島には樹木が無く、草原が広がっていた。現地人が接近してきたらすぐに気付くだろう。
彼らがたどり着いた湾は、現在のドレイクス湾である。サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジから北西六十キロメートル程の所にある。
人類史上二度目の世界周航を果たしたイギリスのフランシス・ドレークにちなんでドレイクス湾と名付けられたという。
今日は、この後、最後まで脱線して、フランシス・ドレークの話になる。
ドレークは十六世紀イギリスの航海者、海賊、海軍提督であり、イギリス人のヒーローである。
航海者としては一五七七年から八〇年までを費やして世界周航している。南米と南極大陸の間の海峡を初めて通過しており、ドレーク海峡に、その名前を残している。
ドレーク以前に世界周航したのは、マゼランの艦隊が有名であるが、この時指揮官のマゼランは
フィリピンで死亡している。指揮官自身が世界一周を果たしたのはドレークが初めてである。
太平洋側に回ったドレークは、スペインの財宝船を襲撃して大量の銀や金を略取している。
スペインの船は、太平洋側にイギリス船がいるとは思ってもみなかったので油断していた。
このことから、スペインからは極悪の海賊として嫌われた。
ドレークはその財宝を持ったまま、太平洋、インド洋と航海し、イギリスに帰国した。
彼が持ち帰った財宝は、彼の艦隊の出港準備にかかった費用の四十七倍にもなったという。エリザベス一世を含む出資者達は、その配当を受け取った。
イギリス王室は、この莫大な配当により、当時抱えていた負債を全て返済し、残った配当でイギリス東インド会社設立の基金を設けることが出来た。
この功績により、ドレークはイギリス海軍の将校になると共に、サーの称号を受けた。
一五八八年の『アルマダの海戦』にも、艦隊副司令官として参加し、スペインの無敵艦隊を破っている。
世界周航の途中、アメリカ大陸西岸を航行している時、ドレークは北緯四十八度あたりまで北上している。これは、アメリカ大陸の北側を回って大西洋に出る航路を探していたとされている。
北緯四十八度といえば、シアトル、バンクーバーのあたりである。随分と北上したものだ。
その途中、ドレークが北アメリカ大陸西岸のある場所に上陸し、そこをニュー・アルビオンと命名しイギリスの領土であると宣言した。
領土である印として、海岸に金属板を立てて、そこに以下のように記したという。
『これによって全人類に知らしむ
一五七九年、六月一七日
神の恩寵とイングランドのエリザベス女王陛下およびその後継者たちの御名において、余は、王とその臣民が全土における一切の権利を放棄したこの王国を占領し、これをノヴァ・アルビオンと命名したことをすべての人々に知らしめる
フランシス・ドレーク』
アルビオンとは、イギリスの古名である。元々の語源はラテン語のalbusで『白い』を意味する。これはドーヴァー海峡のヨーロッパ大陸側から見たイギリスが、石灰岩の白い崖になっていたことによる。
片田達がたどり着いたドレーク湾も、砂浜からすぐに白い崖がある。そのため、このドレーク湾がフランシス・ドレークのニュー・アルビオンであろう、そう思われてきた。
上記の銘文は、ドレークの航海に同行した、フランシス・フレッチャーの記録によるとされている。
時は下って一九三六年。この銘文が刻まれた真鍮板がカリフォルニアの海岸で発見されるのである。三五七年の時を経ていた。
拾ったのはベリル・シンという店員であった。彼はそれを友人であるバークレーの学生に見せる。学生はシンにボルトンという著名な学者のところに持ち込むことを勧めた。
齢六十六歳のボルトン翁は、この時アメリカ史の権威となっていた。彼の主張は、アメリカの歴史は他国との関連または影響のもとに造られた、というものであったので、この真鍮板は彼の主張に沿うものであった。
ボルトンはこの真鍮板が本物のドレークの銘板だと信じた。
例えば、年号のところであるが、IVNE.17.1579とある、IVNEとはJUNE,つまり六月のことだ。J,UがそれぞれI、Vから分離して別のアルファベットとして使用すべきだ、とされたのは一五二四年のイタリアである。
提唱したのはヴェネチアのジャン・ジョルジョ・トリッシーノである。そこから、フランス語を経て英語でもJ,Uが使われるようになった。
当時、ドレークが六月をIVNEと書いてもおかしくない
真実性を疑う意見もあった。
例えば銘文の本文冒頭には以下のようにある。
BY THE GRACE OF GOD ~
これに対して、当時の英語ではTHEは使わないだろう、当時ならばYEと書く、という意見もあった。
あるいは、エリザベス女王の呼び名として、
THE NAME OF HERR MAIESTYQVEEN ELIZABETH OF ENGLAND
と刻まれているが、当時の習慣として、このような呼び方はしないであろう、という主張もあった。
当時ならば、
"Elizabeth, by the Grace of God, Queen of England, France and Ireland, Defender of the Faith"
やけに長いが、日本語にすると、
『エリザベス、神の恩寵による、イングランド、フランス、アイルランドの女王、信仰の擁護者』
と書くはずだ、というのである。
それでも、当時この真鍮板は本物ということにされ、カリフォルニアの教科書に掲載された。レプリカが土産物として販売され、近所にはフランシス・ドレーク高校が建設された。
最高なのは、米英友好の印として、レプリカがイギリスのエリザベス二世女王に送られたことだった。
しかし、一九七〇年代に、物理学的試験にかけられた真鍮板は、残念ながら、それが偽物であることを暴露してしまった。
真鍮は当時行われたようなハンマーによる圧延ではなく、現代の圧延機を使った物だった。
真鍮自体もエリザベス朝時代の物としては不純物が少なすぎた。
以降、この真鍮板は偽物だということが定説になった。
今となっては、真相はわからない。しかし地元の歴史愛好家協会が、同協会員であるボルトンをちょっとからかうつもりで偽造した真鍮板が、なんらかの事情で、抜き差しならない物になってしまったらしいとされている。




