前檣(フォア・マスト)
操帆長と犬丸が船首楼にたどり着く。天井の穴から前檣が見える。
二人が様子を伺う。艦が波の底を過ぎた直後に、天井の穴から海水が降り注ぐ、波の斜面を登って、頂上に至り、また底に向かう間は、海水が落ちてこない。
「やれそうですね」操帆長が言った。
「次の波底を過ぎたら、私が動滑車の所まで登ります。私が鉤縄を固定したら、犬丸様も来てください」
「わかった」
操帆長が定滑車に足を掛け、船首楼上に顔を出す。そして動滑車に鉤を掛ける。
「いいですよ」
犬丸も定滑車の上にあがる。
「じゃあ、私が舷側に行きます」鉤縄の反対側を十字帯に繋げながら、操帆長が言い、犬丸が頷く。
操帆長が両腕で体を持ち上げ、甲板の上に体を移動させた。立ち上がり、右舷の舷側に駆け寄る。
肩から最後の鉤縄を解き、舷側格子の間に伸ばす。
冷たい風で指が麻痺したようになり、格子の向こう側に回した縄をうまくつかめなかったが、なんとか鉤を掴み、手繰り寄せる。
格子を背にして尻をつき、鉤縄を腹のところに回して二重に縛った。操帆長が左手、艦尾の方を見る。艦が波の底を打っていた。艦が風に対して傾いているので波は右舷艦尾より押し寄せてくる。
来るぞ、そう思った時には海中にいた。体が沈むような感じがした後に、再び大気中に出る。
“恐ろしく冷たい”そう思いながら鉤縄を解いて立ち上がる。
帯から手斧を抜いて、左手に持ち、一本目のシュラウドに叩きつけた。二度、三度、それでロープが切れた。ロープが舷側の板に触れているところを狙ったので、少し木片が飛んだ。
二本目にかかる、そして三本目。
「操帆長、波が来るぞ」犬丸が叫んだ。
ふたたび甲板に尻をつき、鉤縄を巻く。それを繰り返した。全部で八本あるシュラウドの六本目まで切った。三度立ち上がる。
その時、切断された部分のシュラウドが風にあおられて、操帆長をなぎ倒した。まだ甲板が傾いていたので、操帆長が船首楼前部に向かって倒れる。
「あっ、大丈夫か」犬丸が叫ぶ。
操帆長は横たわったままだった。転倒したときに気絶したらしい。犬丸が船首楼に登った。
操帆長の両足首を掴み、頭を甲板の穴の所に持っていく。そのまま胴体を押して、意識のない操帆長を下の階に落とした。
彼は頭から階下に落ちただろうが、いましてやれることは、それが精一杯だった。次の波が来る。下に降りている暇はなさそうだ。
右舷に残された鉤縄に飛びつき、それを胴に回そうとしたが、体が前に進まない。なぜだ、と思って振り返ると、操帆長との間に結ばれた鉤縄がピンと張っていた。
犬丸が大量の海水を浴びる。氷なのではないかと思う冷たさだった。
操帆長との鉤縄のおかげで、船首楼から振り落とされることはなかった。海水が引いた後で、操帆長との間を繋いでいる鉤縄を外す。
帯にさしていた手斧を抜いて、風上の艦尾側からシュラウドに近づく。一本、二本、それでシュラウドが空にはじけ飛んでいった。
頭上で木が引き裂かれるような音がする。檣が倒れるな、そう思った。右舷舷側の鉤縄に飛びつき、それを胴に回した。犬丸の前方、左舷側に檣が逆さまに倒れる。
再度、波が船首楼を洗う。その海水が去った後には、左舷の檣は無かった。流されていったのだろう。
犬丸が階下に降りる。
操帆長が横たわっていた。呼吸を確かめる。大丈夫だった、息をしている。
艦尾楼に立つ金口三郎艦長の見る前で、前檣が左に倒れるのが見えた。艦がゆっくりと右回転を始める。
また、繰り返しだ。艦が波に腹を見せている間、なんとか転覆しないことを願う。この回り具合だと、四回か、五回、『神通』は横波に耐えなければならないだろう。
「舵手、艦内に伝言だ。横波にそなえよ」艦長が階下で操舵する舵手に叫ぶ。
右舷から、大きな波が艦に覆いかぶさり、甲板を洗う。左舷が急速に下がり、三郎には甲板が、ほぼ垂直になったような気がした。
波の頂点を過ぎると、今度は右舷側が奈落の底に落ちる。自分が正気でいるのか、どうなのか、不安になってくる。そして波の底で、また海水にぶち当たる。
艦首が、波の線を越して、風上側に向き始めた。横揺れがだんだん少なくなり、ついに縦揺れになった。
嵐に入った時には東風だったが、いつの間にか南の風に変わっていた。低気圧中心の周りを半分以上回り、寒冷前線の南側に出たのだろう。
気づかぬうちに、時刻は正午を越えていた。雲間から太陽が見え始める。
波も目立って弱くなってきた。




