スパンカー
スパンカーというのは、ラテンセイルのような、縦帆の一種である。ディンギーなどの縦帆は三角形であるが、スパンカーは、その前半分を切っている。切断した部分を後檣に接続して縦帆にしている。
金口三郎艦長は、そのスパンカーを艦尾に展帆しようとしている。
帆を張れば、風見鶏の尾羽を張った形になり、艦首が風上に向かうことになる。
先ほどまでとは正反対の向きになるが、艦は波に対して直角をなし、安定する。
艦首が波に正対するまでには、何度か横波をまともにくらうことになる。しかし、それを過ぎてしまえば安定するだろう。それが三郎の考えだった。
四人の船員が艦尾楼に上がって来て、舷側の手摺に鉤縄を結びつける。
大きな波が艦尾から襲い掛かり、その四人を洗い流そうとした。叫び声とともに、四人が舷側に立てられたビレイ・ピンにしがみつく。
一人が流され、艦長の目の前にその男が転がる。幸い、鉤縄のおかげで、彼は艦尾楼甲板でとどまった。
艦が波の頂上に達し、水平になる。その時をねらって、転倒した男が立ちあがり、自分の持ち場にとびかかる。
四人が、スパンカーを檣に縛り付けていたロープを緩め始めた。艦が波の頂点から谷に向かって滑り落ち始める。
三郎は、背後の奈落に吸い込まれるように感じた。
艦長の背後でバサバサという音がして、スパンカーが開かれる。次いでバンッという大きな音がした。帆が風をとらえたのだろう。
船尾が風下に引かれていく感じが伝わってくる。
「舵手、面舵に変更、本艦は右旋回して艦首を風上に向ける。一杯に回せ」
「面舵、一杯」舵手が答えた。艦が右に回り始める。
「スパンカーを風下側に回せるか」
「やってみます」四人の船員が答え、スパンカーの下を支える帆桁を左舷側に回すロープに取りついた。この帆桁はブームという。
「スパンカー、左舷側一杯に固定しました」
帆が、より多くの風を受けて、艦を回した。三回、いや二回横波を受ける間に艦首を風上にまわせるだろうか、その二回の間に転覆しないでくれ、三郎が思った。
「あっ、あれはなんだ」右舷側の船員が風上を指さす。三郎が右をみる。幾つもの波濤の上を、横一線に白い物が並び、恐ろしい勢いでこちらに向かってきた。
突風だ、なんでこんな時に、三郎が思った瞬間に、その白い線が艦を通り過ぎる。
三郎達の体に衝撃が走る。大きな破裂音とともに、スパンカーが弾け、渦巻く黒雲の中に飛び去って行った。
帆を失い、推進力がなくなった艦が残された。この風では他の帆を張ることはできない。万事窮した。
艦長の金口三郎からは見えなかったが、その時、艦尾方向から『那珂』が近づきつつあった。『那珂』は前檣の横帆を失っていなかったので、風下に艦首を向けて、舵の操作だけで、恐る恐る『神通』に近づいてくる。
『那珂』の艦尾楼上で、艦長の絹屋五郎が叫ぶ。
「あっ、『神通』のスパンカーが破れたぞ、これはまずい」
味噌屋の磯丸が五郎の声を聞いて、『神通』の方を見た。
「そうですね。帆を失ったまま、波に腹を見せ始めています、これは、いけないですね」
磯丸は戎島の造船技師だった。艦にかかる波や風の力を熟知している。
「艦長、『神通』と無線交信したいのですが、許可願えますか」
「いいだろう、なにか策があるのか」
「あまりいい考えではありませんが、何もしないよりは、ましです」
「やってみてくれ」
磯丸が艦尾楼下の指令室に降りて行った。
『神通』の指令室。片田がいた。こんな時、片田が出来ることは少ない。無線番を担当していた。
共用周波数の五メガヘルツで『那珂』が『神通』を呼び出していた。鈴の音に交じって磯丸の声が聞こえる。
「こちら、『神通』だ、どうした『那珂』」片田が答える。
「あぁ、良かった。『じょん』ですね。こちら磯丸です」
「あぁ、そうだ」
「たった今、『神通』のスパンカーが吹き飛びました。そちらは操船不能になっています」
「そうなのか」片田のいる指令室からは、外の様子がわからない。
「それで、制御を取り戻す方法を教えますので、三郎に、金口艦長に伝えてください」
「わかった、で、どうすればいい」
片田が磯丸の指示を聞き、復唱した。




