鯱(シャチ)
帆船の檣は、主に三種類のロープによって支えられて立っている。この支えるロープの事を静索という。
それに対して、帆の上下や、方向を変更したりするロープを動索という。
静索のうち、前後を支えるロープのことを、ステイ、バックステイという。ステイは檣を前から引き、バックステイが後ろから引くことにより、前後を固定する。
檣は背後から風を受けるので、やや後ろに傾いて固定される。
それに対して左右を固定するロープのことをシュラウドという。帆船を見ると、檣の左右に漁網を張ったような特徴的なロープが見られる。あれがシュラウドである。
シュラウドは、船員が檣の上に登る縄梯子にもなっている。
そのシュラウドを、米十が危なそうに登っている。米十が登ろうとしているのを知った三毛猫の『ジョン』が傍らをすばやく駆け抜けていった。
『ジョン』は船倉の梯子も、シュラウドも、人間より速く駆け上る。
ただし、降りるのは少し苦手だった。
米十達は船員ではなく、開拓団員だった。なので、檣に登るようなことはしない。
「めったに見られないものが見れるぞ」船員達にそう言われて、登っている。
檣は複数の柱が縦に繋ぎ合わされているが、その一番下と二番目の間にトップという半円形の足場がある。トップの端から『ジョン』が米十を見下ろして、ニャアと鳴く。
トップには穴が開いていて、そこにシュラウドが集中している。米十がその穴をくぐろうとすると、そうじゃない、そこは通れないから、トップの縁を回ってあがってこい、そいう言われた。
“そんな恐ろしいこと、出来るか”そう思ったが、ここまで来てやめられない。
米十がトップに這い上がり、前方の海面を見る。まだ胸がドキドキしている。
空は晴れていて、風が斜め後方より穏やかに吹いてくる。
檣の途中、見張り台のところでは、船が不思議な揺れ方をする。
船の針路のはるか前方に、左から右に、海面に白い帯が、そしてその上空に薄い雲のようなものが見えた。
「ありゃ、なんだい」米十が前檣の見張りに尋ねる。
「あれは、小エビの群れだ。嵐の後にときどき湧き上がる」
おそらく数週間前、嵐により、海水がかき混ぜられた。深海のミネラルや栄養分を含んだ海水が海面付近に湧き上がったのだろう。
栄養豊富な海水のなかで、植物プランクトンが大量に発生する。それをエサにする動物プランクトンが繁殖する。
この小人達の群落の頂点はオキアミなどの甲殻類、船員がいうところの小エビだった。
無数の小エビの大集団が海面上の白い帯の正体だった。
米十が海面の帯を眺めていると、船の後方から黒い鳥が前方に向かって飛んでいく。
最初は一羽だけだったが、帯に近づくにつれて、増えてくる。
「ミズナギドリだ、海の上に棲んでいる」船員が教えた。
ミズナギドリの密度が高くなってくる。
帆桁とは、檣から水平に伸びた桁で、帆を張るために使われる。その帆桁にも、ミズナギドリが数羽止まって休んでいる。
帯に近づくに従い、ミズナギドリの数が増えてゆく。海面にも上空にも数えきれないほどの数の黒い鳥が群れる。
「これは、すごいな。あの鳥たちは小エビを食っているのか」米十が言った。
「たぶん、そうだ」
「だとすると、海の中にはとんでもない数のエビがいるんだろうな」
船がさらに帯に近づくと、帯とその周囲の海面が泡立っているのがみえた。まるでそこだけ夕立が降っているようだ。
「あれはなんだ。あそこだけ雨がふっているようだけど」
「ありゃあ、たぶん鰊の群れだ」
「魚も来ているのか」
米十が生き物の大群に見とれている間にも、見張りの船員は周囲を監視している。
「おいっ、米十よ、右舷後方を見てみろ」米十がそちらを見る。
「なんだ、なにもみえないけど」
「海面に黒い三角みたいなものが見えないか」
「あっ、見えた。なんだあれ、鯨か」
「鯨は、冬は南の海に行っている。あれはシャチだ」樺太探検の経験がある『見張り』が言った。
「シャチっていうのもいるのか、鯨と違うのか」
「鯨には背びれがない、シャチはほら、三角の背びれがあるだろう」
「六頭いるかな、家族なのかな」
「ああ、たぶんな。お、一番大きいのが尾を立てたぞ」
確かに、シャチの一頭が海面に尾鰭を立て、海面を二度、三度叩く。
後方にいたシャチ達が、いつのまにか『神通』と並んでいる。シャチ達の向こうに『那珂』と『アメリカ丸』が航行している。
イルカに似ているが、大きい。傍に寄ってきたので大きさがわかってきた。六メートルくらいはあるだろうか。
「尾で海を叩いたけど、あれ、なんなんだ」
「さて、俺の想像だが、戦闘開始の合図じゃないかと思う」
「戦闘開始って、誰と闘うんだ」
「ニシンの群れだ。狩りが始まるぞ。見ていろ」
六頭のシャチが横一線に並ぶ。中央の大きなシャチがもう一度、尾で海面を叩く。それが合図だった。六頭がすばらしい速度で前進する。『神通』があっという間に置いて行かれる。
彼らが力泳する先にはプランクトンの帯があった。その帯に突っ込む。シャチの背びれの周りで無数の魚が空中に舞った。
シャチ達が、当たるを幸いに、という勢いでニシンの群れを捕食する。
「すごいなぁ」米十が言った。
「そろそろ、当直の交代だ。降りた方がいいぞ」
「そうだね、見せてくれてありがとう」そういって、米十がトップの縁から、恐る恐る降りようとした。
三毛猫の『ジョン』が、米十の背中に飛び移り、革製の外套に爪を立てる。ぶら下がったまま上甲板まで降りようとしているらしい。
「天気が下り坂だ、次の当直は気を付けろよ」見張りの船員が米十に言った。
 




