釣り
この物語では、帆船内の生活やルールについて、西洋の大航海時代以降のそれに合わせている。独自に考えてもいいのだが、面倒なだけだし、どうせならば当時の事を知ってもらった方がいいだろう、そう思って、それらをそのまま持ち込んでいる。
当直というものも西洋帆船時代のものをそのまま使っているので、簡単に説明しておこう。
航海している船は二十四時間営業である。
航海中の船は常に動いているので、他の船や陸地が接近していないか、見ていなければならない。また、風向きが変われば、それに対応して帆や舵を操作しなければならない。
なので、船員を右舷側と左舷側の二つの組に分けて、交代で当直勤務を行う。
右舷側、左舷側というのは、おそらく各乗員の寝場所か、手回り品を格納する箱が置かれた場所で決められたのだと思う。
右舷直は艦長が指揮する。左舷直の時には航海士が指揮を受け持つ。
大きな船で航海士が二人以上いるときは、右舷直を一等航海士が、左舷直を二等航海士が担当する。
一回の当直は四時間だった。一日は二十四時間なので、一日当たり六当直になるはずだが、これを七当直にしている。
一つの当直だけは四時間当直を二時間当直二つに分けているのだ。二時間の当直を折半直という。
なぜ、こんなことをするのかというと、毎日同じ時間帯にすると、単調になり注意力が低下するからだと言われている。
帆船時代の当直は以下のようになる。
・夜半直 午前〇時から午前四時
・朝直 午前四時から午前八時
・午前直 午前八時から正午
・午後直 正午から午後四時
・第一折半直 午後四時から午後六時
・第二折半直 午後六時から午後八時
・初夜直 午後八時から午前〇時
なお、旧日本海軍の折半直は午前〇時から午前四時の当直を二つに分けていたという。
米十、熊五郎、金太郎達は右舷組だった。前日の初夜直が右舷組だったので、翌日の朝直も右舷組だ。なので、この日の午前八時から正午までは休息時間だった。皆まだ四時間ごとの当直に慣れていないので、四時間眠っただけでは、少し眠い。しかし、あたりが明るいので眠ることもできない。
船内の生活を描くうえで、もうひとつ迷ったことがある。彼らの生活は多忙だったのか、それとも有閑なものだったのか、である。
これは資料によって、どちらでもあるといえた。しかし、作者としては、彼らが暇なく働かされているところを描写するよりも、呑気に航海を楽しんでいる姿を描くほうが楽しい。
なので、彼らの航海は一部を除いては、明るく楽しいものになるだろう。
風は西北西に変わっていた。三隻の針路は東北東だ。左舷側後方から風を受けて、わずかに右側に傾いている。このようなとき、船員達は風下である右舷側を歩く。
艦尾で当直監視を行っている士官の視線の邪魔にならないようにしなければならない。
右舷主甲板のところで、米十達が右舷側の海を眺めている。主甲板は上から三番目の甲板で船首から船尾まで全てを覆っている。
主甲板の舷側は低く、海面が間近に見える。右手側には外輪がある。
艦尾後方の海を見ていた米十が、海面に何かを見つける。
「あ、イルカだ。二頭、三頭、五頭もいるよ」確かに、代わる代わるにイルカが海面で跳ねていた。彼らの船を追いかけているようだった。
昨夜より風が弱まっているので、すぐに追いつかれそうだ。
「こりゃあ、絶景だな、やつら俺たちを追い越そうとしているのか」熊五郎が感心した。
「遊んでいるつもりなのかな」金太郎が言う。
突然、背後でビシャッという音がした。米十が振り返ると主甲板で一匹のトビウオが跳ねていた。
「ありゃ、イルカに追われて逃げ込んだのかな」米十が叫んだ。
海の方に振り返ると、確かにイルカの進行方向前方で、魚らしきものが海面の上を跳んでいた。いままでイルカに気を取られていて気付かなかった。
かなりの数だった。
さらに幾つか迷い込んできた。トビウオだけではない。ヤリイカも飛び込んでくる。イカが空を飛ぶのは『コン・ティキ号探検記』にも書かれている。
三人が、主甲板備え付けの手桶を持ってきて、トビウオやイカを捕まえる。
例の雄三毛の子猫が隅の方でトビウオと格闘をはじめるが、トビウオの方が力強い。子猫が舷側に弾き飛ばされる。
三人とも、手桶一杯に魚を拾った。米十がおとなしくなったトビウオを一匹、雄三毛に投げてやる。子猫が恐る恐る噛り付いた。
三人が料理長のところに手桶を持っていく。
「ヤリイカはスルメにするので、ありがたい。しかし、トビウオはなぁ、皆の評判が悪いんだ」そういって料理長がヤリイカだけ受け取った。
「トビウオは、どうするか」米十が言う。
「海に戻すしかないかな」
「いや、せっかくだから、これをエサにして、釣りをしてみないか。次の当直まで、あと三時間もある」
三人が合意した。主計長のところに行き、竿と釣糸、釣針を借りる。
釣針は交易品として、どこに行っても重宝されるので、数千本も積んでいた。
「主甲板舷側から釣糸を垂れたのでは、糸が外輪に巻き込まれるだろう」金太郎が言った。現在は帆走しているので、外輪は海流に合わせて緩やかに回転しているだけだ。
「じゃあ、どうするんだ」と、熊五郎。
「艦尾に行ってみたらどうだろう。指揮所の外側に回廊がある」米十が提案する。
「指揮所の回廊だと、入れてくれるかな、あそこ士官しか入れないんじゃないか」
「食料調達だと言えば、入れてくれるかもしれない」米十が言う。
「だめもとで、行ってみるか」
三人が指揮所のドアを叩く、非番の艦長が出て来た。
「釣りがしたいだと、まあいいか。しかし指揮所にあるものには触るなよ。壊れたら取返しがつかないものばかりだからな」そういって、中に入れてくれた。
米十達が指揮所に入った。無線機、水銀柱気圧計、風向風速観測盤、羅針盤などの機械が並んでいる。中央には海図を広げられるテーブルもあった。
三人が慎重にテーブルの脇を通り、艦尾に張り出した回廊まで行く。艦長はそれを注意深く監視した。
回廊に出ると、とたんに周囲が開ける。目の前の海面に『神通』の航跡が白く伸びていた。
竿に釣糸と釣針を付け、釣針にトビウオのエラのところを引っかけて、海に落とす。
何かの手ごたえがある。米十が糸を引き戻してみると、トビウオが骨だけになっていた。別のトビウオを付けて、再度針を海に落とす。
「なにか、かかったぞ」そう言って熊五郎が釣り竿を軽く跳ね上げる。とたんに、竿が海に引き込まれそうなほどにしなった。
「かかった」金太郎が言う。
「がんばれ、熊五郎」米十が応援する。
「こいつぁあ、ちょっと大きすぎるかもしれん、この竿で大丈夫かな」熊五郎が心配そうに言う。彼の両腕がビクビクと震えている。そうとうの引きの強さだった。
「無理に引き上げようとするなよ、弱らせるんだ」金太郎が言う。
「マグロかな」米十が言う。
「いや、マグロだったら、この竿ではとっくにやられている」
「じゃあ、カツオか」
「そうかもしれん」
カツオと聞いて、金口三郎艦長が回廊に近づいてきた。カツオは三郎の好物だった。
「なにか、かかったのか」
「はい、少し大きめのものがかかったようです」金太郎が答える。
熊五郎の腕の震えが小さくなってきた。
「弱ってきたようだ。そろそろ上げてもいいか」熊五郎が言う。
「少しずつ、上げてみろ。暴れるようだったら、また弱めるんだ」金太郎が言った。
熊五郎が竿を立て、糸を持って手繰り寄せる。あるところで急に重くなる。
魚が空中に浮いたのだろう。彼らには見えないが、船の舵に沿って、カツオが登っていく。カツオが暴れるたびに糸が左右に揺れる。しまいには三人で糸を手繰り寄せた。
「お、見えたぞ。カツオだ」米十が叫ぶ。
「よし、もう少しだ」
カツオが回廊の手摺を越えて、船内に転がり込んで跳ねる。熊五郎と金太郎がそれを抑えつけた。
「よし」
「やったな」
「これは見事なカツオだ。でかしたぞ」金口三郎艦長が叫ぶ。
カツオの息が続かなくなり、おとなしくなった。
「料理長のところに持っていくがいい。稲藁があるはずだから、タタキを作ってくれと言ってくれ、夜にみんなで食べよう」金口艦長が嬉しそうに言い、続けて言った。
「今、七点鐘だ。もうすぐ午後直が始まる。遅れるんじゃないぞ」
次の当直が三十分後に迫っていた。




