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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
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水樽(みずだる)

 年が明けて、延徳えんとく二年正月七日(西暦一四九〇年一月二十七日)、探検艦三隻への荷積みは、ほぼ完了していた。出航予定は正月十三日だった。

 世間は、まだ正月気分だったが、探検艦では出航を控えてあわただしかった。


 脱線する。この時代の正月気分は、いつ頃までだったのだろう。

 商人達は、商売があるのでそうそういつまでも遊んでいられないであろうが、荘園の農家は比較的暇な時期だ。


山科家やましなけ礼記らいき』という日記がある。

 山科家の雑掌ざっしょうである大沢久守ひさもりが断続的に記録した日記だ。期間は長禄ちょうろく四年(一四五七年)から延徳四年(一四九二年)までである。ちょうど物語の時期と重なる。

 雑掌というのは、事務長あたりの役職だったらしい。

 山科家というのは京都みやこ公家くげで、藤原北家ふじわらほっけの流れである。

 宮廷では内蔵寮くらりょうかしらを務め、天皇の装束しょうぞくを管理していた。

 その山科家が京都と琵琶湖の間にある山科に『山科東荘やましなひがしのしょう』という荘園を持っていた。大沢久守は、その荘園の管理を担当していた。


 日記によると、荘園では、正月三が日は、自宅でゆっくりとしているらしい。

 一月四日には荘園の民が、領主である山科家におもむき、百文程の銭を領主に差し上げ、領主はもちや酒をふるまう。

 一月六日には荘園から若菜わかなが領主に向けて贈られる。領主は翌朝若菜を刻んで味噌雑炊みそぞうすいに入れて食べた。

 『七草粥ななっくさがゆ』を食べ終えた領主は、荘園を訪れて代官所で風呂に入って身を清めると、神社に登り、神楽かぐら奉納ほうのうし、村に戻って、村人と酒を酌み交わす。

 一月十一日になると、荘園から領主にむけて、鎮守ちんじゅの御守り札や、鏡餅かがみもちを贈る。

 一月十四日には荘園から領主の館に大量の竹としばが贈られる。領主館では竹を立てて支柱とし、それに柴をかける。

 この竹と柴で作られた円錐えんすいには、翌十五日早朝の暗いうちから火を点けられる。

 『三毬打さぎちょう』とか、『どんと焼き』といわれる火祭りだ。

 この火の中には一月七日に行われた『書初かきぞめ』の紙なども投げ込まれる。

 同時刻に、荘園の方でも三毬打が行われたという。

 このあたりまでが、貴族が所有する荘園の正月祝いだったのだろう。のどかなものである。



 さて、正月七日の堺港。

 米や大豆、漬物のたるは、すでに昨年の内に積まれていた。缶詰糧食りょうしょくの木箱も船腹に納められた。今日からは水樽みずだるを積み始める。

 長い航海では、水が腐敗ふはいする。なので、樽に水を詰める前に煮沸しゃふつすることにしていた。

 戎島造船所には、船板ストレーキを曲げるための巨大な水蒸気室があった。その中に真新しい樽を入れて一晩蒸す。

 水蒸気室から取り出された樽を湯が沸騰する大鍋にいれて沈め、熱湯で満たす。

 最後に、これも蒸された木栓もくせんを樽の口に差し込んで、木槌きづちで密封する。


 新造された白木の樽は、メートル法に合わせて造られていた。一樽が百リットルである。なので、乗組員五十人の五十日分。一日必要量が二リットルとして、五トンの水つまり五十個の水樽を搭載しなければならない。

 三艦それぞれに、五十個の水樽、合計百五十樽が積み込まれることになる。


 暦は春になったが、まだ真冬の早朝だ。蒸気室から出て来た樽も、大鍋も白い湯気を盛んに立ちのぼらせる。

 そのなかで、港の作業員、三艦の船員、開拓団員がそれぞれの仕事をしていた。




 片田商店二階、自室の窓から片田がその様子を見ていた。

 バタバタと階段を駆け上がってくる音がする。

「『じょん』、片田村の『いと』から無線で連絡が来た。片田村で天然痘てんねんとう流行はやりはじめたそうだ」石英丸せきえいまるだった。

「なに、天然痘だと」

「ああ、今朝けさ、二人が発症した」

 古墳から村に向かって降りて来た時の事を思い出す。十五年ぶりに見た片田村には、多くの子供たちがいた。そのとき、相当人口が増えているのだろうな、と感じたことを思い出す。

 あれだけ子供がいれば、流行が始まってもおかしくはない。


 天平てんぴょう年間に日本に天然痘が渡来してから、七百五十年程が経つ。

 天然痘は既に全国的に大流行するような病ではなくなっていた。十年か二十年に一度、つまり一世代に一度流行る、免疫をもたない子供世代の流行病になっていた。

 また、子供はあまり移動しないので、流行しても地域的に限定された病気にもなっていた。


「『いと』が、昼に片田村を出発する列車に乗って堺に相談にくるそうだ」

「昼にか、そうすると堺に着くのは夜だな。茜丸あかねまるを呼んでくれ、それまでの間に打ち合わせが必要だ」


”出航間際まぎわの時に、これが来たか“片田が思った。

「『いと』が、子供の外出を禁止したそうだ。大人もなるべく外出を避け、人同士接触したり、会話したりしないように指示もしたそうだ。昼に片田村を出発する前に、他に指示すべきことがあれば、教えてくれ、と言っている」


 天然痘の潜伏期間はどれくらいだろうか。片田はそう思いながら、石英丸の後から、無線室に降りていった。

医師の器具や着衣の消毒、村人への予防対策など、まだ間に合うかもしれない。いくつかの事を指示しなければならなかった。

アルコール消毒が出来るだけのエチルアルコールは淡路島で量産されている。


片田は、現代に戻っていた時そこまで調べてはいなかったが、天然痘ウィルスはアルコールやホルマリンで不活化ふかつかされる。


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