引火点と発火点(いんかてん と はっかてん)
三十年ほど前。
「蒸気機関を、もっと小さくできないだろうか」鍛冶丸が言った。
「なぜ、小さくしようと思ったんだ」片田が問う。
「小さくなれば、色々なところに使えるだろう。たとえば大和川を上り下りしている魚簗舟に機関を載せれば、風に頼らずに速く走れる」
魚簗舟は、当時大和平野でよく使われていた平底の小舟で、全長十五メートル、全幅一.五メートル、排水量一トン程度だった。
それに蒸気機関を載せるとしたら、確かにかなり小さくしなければならない。
片田が少し考え込んだ。
「蒸気機関を小さくするためには、何故蒸気機関が大きいのか、考えなければならない」片田が謎のようなことを言う。
「どういうことだ、そうだな。まず燃料の石炭と、蒸気を作る水が嵩張る」
「そうだな、それに石炭を燃やす火室が必要で、その中に鉄パイプを張り、中に水を通し、蒸気にしなければならない。ボイラーと蒸気溜もある」
「シリンダーとピストン、スライドバルブなんかも必要だ」
「それは、無くせないかな」
「どういうことだ」
「いま、もし『燃える水』があったら、まず、水が必要なくなる。水が無くなれば、石炭を燃やす火室も、ボイラーも、蒸気溜もいらなくなる」
「シリンダーとピストン、それに『燃える水』が燃える燃焼室があればいいということか」
「そうだ」
「そんなものあるのか、『燃える水』なんて」
「あるとも、荏胡麻油は燃えるだろう」
「たしかに、あれは燃えるけど、ゆっくりだ」
「似たようなもので、石油というものがある」
「『せきゆ』か」
「そうだ。近い所では、ここにある」そういって、片田が白い紙に日本と樺太の地図を描き、樺太の一番上の所に×印を付けた。そして、その右に『石油』と書いた。
「石油、って書くのか」
「この石油というのは、いろいろなものが混ざっている。なので、それを分けてやらなければならない」
片田が二枚目の紙を前に広げて、縦の筒を描いた。
「分けるために石油を温める。そうすると蒸発したいろいろな成分がこの筒の中を上に登っていく」
「筒は上が熱くて、下が冷たいのか」
「そうだ。で石油のなかの色々な物は、成分によって蒸発する温度が違う。蒸発する温度が違うということは、凝固する温度も違う。なので、塔の適切な部分に受け皿を置いておけば、そのなかに、凝固した油が溜まる。受け皿から樋を作って外に取り出す」そういって、筒を横切る線を幾つか描いた。
「一番下のここは、まだ熱いので、『重油』というものがたまる、次が『軽油』、『灯油』、『ガソリン・ナフサ』とそれぞれ凝固温度が違う。最後に普通の温度、常温でも凝固しないものが天井に残る。これは冷却して液化するため、『液化天然ガス』という。どの油も『燃える水』になる」
「どれくらいの温度なんだ」
「さて、それがわからない」
「そうか」
「いま、この軽油やガソリンが手に入ったとする」
「うん」
片田が三枚目の白紙を出してエンジンの絵を描いた。
「ここの、一番上の部分に軽油やガソリンを『霧吹き』で吹き付けて燃やすと、爆発的に燃えて、ピストンを押し下げる」
「あとは、蒸気機関と同じように回転運動に変えるんだな。でも、爆発的に燃えるのか。荏胡麻油はチョロチョロとしか燃えないけど」
「燃える。大丈夫だ。空気と混ぜて霧状にして吹き付けるんだ」
それが三十年前だった。
鍛冶丸は『霧吹き』を使って、荏胡麻油を霧状に吹き出して火をつけてみた。確かに片田が言うように爆発的に燃える。出来そうだった。眉毛と前髪が少し燃えた。
数十年後、鍛冶丸は手に入れた軽油を燃料にして試してみた。
「それが、いくらやってもうまくいかないんだ。頭のところに電極を置いてみたが、それでもうまくいかない」
「どう、うまくいかない」片田が尋ねる。
「そうだな、いろいろなんだけど、燃焼したり、しなかったりする。それに電極がすぐに駄目になる」
“電極がすぐに駄目になるのは脱硫していない燃料を使っているからだろうな。しかも軽油だ、ガソリンより消耗が激しいだろう”片田が思った。
燃えたり、燃えなかったり、というのは、よくわからない。点火プラグは非常に高い電圧で火花を飛ばすが、流れる電流が少ないので、熱量としてはごくわずかだ。軽油を着火させるには熱量が足りないのかもしれない。
片田がリュックサックから冊子を取り出す。これは未来から持ち込んだノートではない。それを写した冊子だった。原本は持ち出しするには貴重すぎた。
「ガソリンエンジンのことは置いておいて、まずディーゼルエンジンの事を考えよう。いま、ガソリンは空気中に放出しているのだから」
「そこでだ。物が燃える時には、引火点と発火点というものがある。これは例の『理科年表』にも、いくつかの数字が出ている」
片田が白い紙を一つ机の上に広げて、冊子を参照しながら以下のような表を書いた。
引火点 発火点
軽油 50℃~70℃ 250℃
ガソリン -40℃ 300℃
「このように引火点と発火点は異なる」
「軽油とガソリンで、数字が逆転するのか。おもしろいな」
「引火点とは、マッチの火のような火種を近づけた時に、火が付いて燃え上がる温度だ」
「なんで引火点より下の温度だと、火が付かないんだ」
「例えば、軽油に火を近づけて、燃焼するためには、火の回りで、軽油が蒸発して空気とまざっていなければならない。まったく軽油が蒸発していないと、軽油と空気は分離しているので、火を近づけても燃えない。その温度が五十度から七十度だと言っている」
「蒸発していないと、燃えないのか」鍛冶丸が不思議そうに言った。
一方のガソリンはマイナス四十度から蒸発を始める。鍛冶丸が手に負えないと言って大気中に放出してしまっているのは、この扱いにくさからだった。
近年でもガソリンで大やけどを負う事故があるが、それほどガソリンは危険だ。そこいらに撒いたり、バーベキューグリルに入れたりしてはいけない。
「そうだ。なので、引火点は『燃焼を始める程度に蒸発し始める温度』と言ってもいいかもしれない」
「次に発火点だが、これは火を近づけなくとも、この温度になれば空気中の酸素と反応を始めて、勝手に発火する温度の事だ」
「火種が無くても燃える、ということだね」
「そのとおり」
「なんで軽油の引火点はガソリンより高いのに、発火点はガソリンより低いんだ。普通引火点が高ければ、発火点も高くなりそうなもんだけど」
「それは、私も知らない」
「しかし、軽油は二百五十度以上に加熱すれば自然に発火する、とこの表は言っている」
「そのとおりだとすると、エンジンの燃焼室を二百五十度以上にすればいいということだけど」
「鍛冶丸のエンジンが軽油と空気の混合気をピストンで圧縮したときに、二百五十度に達しなかったから、うまくいかなかったんだろう」
「そういうことか、でも二百五十度まで圧縮するって大変そうだな」
たしかに断熱圧縮で常温(二十五度)の混合気を二百五十度以上に圧縮するためには、四分の一以下の体積にしなければならない。竹筒の水鉄砲などで試してみればわかると思うが、かなり大変な作業だ。
なお、上の計算では、空気の比熱比を一.四としている。
「圧縮以外で気体の温度を二百五十度以上にすれば、混合気が自然に発火する」片田が言った。
「どうやって」
「シリンダヘッドとシリンダの接合部には何を使っている」
「雲母の薄片をヘッドの形に切ってシリンダと繋げている」
「ならば、シリンダヘッドを高熱にすればいいんだ。ここにある材料ですぐにできる。やってみよう」
エンジンの取り扱いとしては、最も野蛮な方法だが、たしかにそれでも軽油エンジンは動作する。
『活動報告』にも書いたのですが、
>片田のいた昭和期には、ストロークよりも、サイクルの方が一般的だったと思います。
という感想をいただきました。
そういわれると、昔、4サイクルといっていたような気がします。
ただ、昔のことで、記憶があいまいです。
昭和期にどっちを使っていたのでしょうか。
ご存じの方がいらっしゃいましたら、教えてください。『感想』に書いてください。
もし、4サイクルだった、というご指摘が多ければ、修正いたします。




