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戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
338/611

内燃機関(ないねん きかん)

 後方で操縦している船頭せんどうが、快速艇を左旋回させ、港の一番西にある埠頭ふとうに船をもやった。

 岸壁がんぺきの階段を登って、埠頭の上に出る。

「あの山に、仕事場を作ったんだ」鍛冶丸かじまるが西にある小山を指さした。片田が見ると、山上に大きな建屋たてやが見えた。

「山の上に建てたのか」

「ああ。あの山の中腹に石碑せきひがあったからだ」

 鍛冶丸が言うには、その石碑には、“この場所まで津波が来た”と彫ってあったそうだ。それによると、正平しょうへい十六年六月二十四日寅刻とらのこく、午前四時頃、大津波がこの港を襲ったのだそうだ。

 石碑は生き残った村人が、後の人のために、津波が来たら、ここより上に逃げなければならない、と注意するために置かれたとのことだ。

 この石碑が置かれた頃、淡路国あわじのくに守護は細川氏春うじはるだったが、正平十六、十七年の短い期間、南朝に従っていた。

 それなので、南朝の年号『正平』が使われていたのだろう。


 鍛冶丸達は正平十六年が何年前か知らなかったが、西暦で言えば一三六一年なので、この石碑は正平地震しょうへいじしんのことを言っているのであろう。

 この地震は不定期に発生する『南海トラフ地震』の発現はつげんであると考えられているそうだ。マグニチュードは八.五と推定されている。

 かなり、大きい。


 この地震については、当時の日記などに残されている。有名なところでは『太平記たいへいき』にも記されている。


 記録によると、摂津国せっつのくにでは四天王寺してんのうじの近くまで津波が押し寄せたという。

 淡路島より南側では、阿波国あわのくに由岐湊ゆきみなとで、大津波で千七百戸が流出したそうだ。

 福良ふくらみなとでも、相当の被害があったのだろう。


 なので、山の上に仕事場を作ったのだ、という。



 そんな話をしながら二人が山道を登っていると、鍛冶丸の言う石碑があった。

「これだ」鍛冶丸が道端みちばたの石碑を示す。古びた物で、日陰にあるのでこけむしていた。最近その苔をがして、刻まれた文字を読んだのだろう。道に面した側の刻面こくめんだけがきれいになっていた。


 山頂に近づいた。鍛冶丸が仕事場と呼ぶ建物が見えてくる。

「ここは、設計や試作をやっている。記録類もここにある。工場は津波や火災でやられても再建できるけど、ここの記録は失うわけにはいかないからね」

「そうだろうな」


 建屋に入る。茸丸たけまるの植物研究所とは様子が異なった。茸丸の研究所は個室が多かったが、この建屋は、広い部屋にいくつもの机が置かれていた。広い天井を支えるために、幾本もの柱が立っている。

「多人数で協同する仕事が多いので、こんな感じなんだ」鍛冶丸が言った。


 広い仕事場を横切って、奥にある、少し広い机のところに来る。

「これが、僕の机だ」と、鍛冶丸。そして、その背後にあるドアを開ける。

ドアの先に、二十メートル四方くらいの部屋があった。そこが鍛冶丸個人の実験室らしかった。

 作業台があり、その周りに四つの椅子が置かれている。

「そこに座って」そういいながら、本棚から一つの冊子を取って開き、椅子に座った片田に渡した。


「これなんだ。どうしてもうまくいかない」


 冊子を開くと、見覚えのある紙が止められていた。

「これは、内燃機関ないねんきかんの話をしたときの紙だな。取っておいたのか」片田が言った。

「そうだよ。その話を聞いたとき、どうしても作りたかった」

 ずいぶんと前、鍛冶丸がまだ二十歳くらいの頃だった。


 一枚目は地図だった。日本地図と、その北に樺太からふとえがかれていた。樺太がちょっと小さいようだ。

 樺太は大きい。その南端から北端までの距離は、東京から札幌までの距離より長い。

 その北端のところにバツ印が書かれていて、その右に『石油』と書かれていた。


 二枚目には、中央に縦長の細い筒が描かれていた。その筒を横切るように数本の線が引かれていた。一番上の線は筒の上端に接しており、その右側に『液化天然ガス』と書かれている。

 二番目以降の線の右側には、上から順番に『ガソリン・ナフサ』、『灯油』、『軽油』、『重油』と書かれていた。残念ながらそれぞれの成分が液化分留する温度までは書かれていない。

 不本意に室町時代に来た片田である。分留温度までは知らなかった。

 さらに、塔の途中で液化した油を取り出すための棚段たなだんなど書かれていない。こんな図一枚から、よく蒸留塔を実用化したものだ。


 三枚目には、二つの内燃機関の図が書いてあった。それぞれガソリンエンジン、ヂーゼルエンジンと書かれている。

 ガソリンエンジンの上部には『点火栓てんかせん』と書かれた棒が差し込まれている。そこに星印が添えられており、『電気火花で点火する』と説明書きがか書いてあった。

 ピストンから下るコンロッドと、クランクシャフトがかかれていて、左回転の矢印が添えられている。

 余白には、「四サイクル、吸入、圧縮、燃焼・膨張、排気」とあり、その下には「二サイクル、上昇時、排気と圧縮、燃焼、下降時に排気開始」

 などと書かれていた。


 昭和の工業技術者が製品設計の前段階に構想を表現する手段として『ポンチ絵』と呼ぶ簡易にして要領ようりょうを得た図を描いた。

 官僚なども事業の概要を表すために『ポンチ絵』を描いた。


 片田の三枚の図は、『ポンチ絵』にもなっていない。分留温度、蒸留塔の内部構造がなかった。エンジンの前提となる物、たとえばガソリンエンジンになぜ点火プラグが必要なのか、ディーゼルエンジンに点火プラグが必要ないのは何故なのか、そういった肝心かんじんなことが書いていない。


 鍛冶丸が、蒸気機関をもっと小さくできないか、と聞いてきたときに、思い付きで、いや思い出せる限りで、描いたものだった。

 鍛冶丸は、その『あやふやな記憶』を実現しようと、三十年追い続けていた。

 そして数年前、金口かなぐちの三郎達が樺太で原油を発見した。蒸留塔を建設し、灯油や軽油を手に入れた。次は内燃機関ないねんきかんだった。


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― 新着の感想 ―
[一言] 片田のいた昭和期には、ストロークよりも、サイクルの方が一般的だったと思います。
[良い点] 答えが分かっているとは言え、良くもまあ…… [一言] 試行回数は減るけど、基礎技術の積み重ねがどの程度あることか
感想一覧
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