足利義尚(あしかが よしひさ)
足利義政の跡取り、足利義尚が、近江の陣中で若くして没した。彼はそこで何をしていたのだろうか。
このことを足掛かりにして、応仁の乱後の日本を概観しておこうと思う。なぜならば、日本が大きく変化する時期だからだ。
今回は説明的な文章になってしまうと思うが、一回だけなので許してほしい。
義政は西暦一四七三年に征夷大将軍を息子の義尚に譲った。和暦を使わないのは、物語と史実で年号が異なっているからだ。
この時義尚は九歳である。実際の政務は義政と、妻の日野富子、富子の兄、日野勝光の三人が行った。
一四七九年、十五歳のときに判始を行う。
判始とは、室町時代、将軍が就任して初めて公的文書に自らの花押を記す儀式のことである。
花押とは、日本式のサインのことだ。
この時まで義尚は花押を持っていなかった。なので、将軍ではあったが、自らの名で公的文書を発行することができなかった。
それが、出来るようになった。
出来るようになったが、やはり政務の実権を持っていない。
彼が政治を動かすようになったのは、一四八五年、二十一歳になったときだった。
この時までに義尚は幕府の奉公衆を握っていたようである。
奉公衆とは将軍直属の軍事力である。
似たような室町幕府の官職に奉行衆というものがある。こちらは文官である。間違いやすい上に、この時期両者は対立している。
なので、奉公衆(近衛兵)、奉行衆(官僚)と書いて区別する。
義尚は『文武に練達す』と記録されていたので、練武などを通じて奉公衆(近衛兵)を掌握したのであろう。
一四八五年に奉公衆(近衛兵)と奉行衆(官僚)が対立した。対立の原因は、将軍義尚に対面する順番をどうするか、というものであったという。
奉行衆(官僚)の身分は、奉公衆(近衛兵)に比べて低いとされている。しかし平時には奉行衆(官僚)の実務能力が必要であり、しだいに地位を上げていった。
そして、ついに対面の順番などという、どうしようもない理由で対立することになったらしい。
思うようにいかなかったのか、奉行衆(官僚)が仕事をボイコットし、奉行衆(官僚)のリーダー、布施英基は自宅を要塞化して立てこもる。
これを反乱とみなした義尚が英基邸を襲撃するが、細川政元の仲介により、市街戦にはならなかった。
布施英基は義政に許され、幕府に参上することになるが、そこで奉公衆(近衛兵)に暗殺される。
ここにおいて、義尚と奉公衆(近衛兵)という集団と、義政と奉行衆(官僚)という二つの派閥の対立があったとされる。
当時においても尋尊さんが、
「東山殿(義政)ハ奉行方、室町殿(義尚)ハ近習方なり」
と記録している。
この後、幕府内での権勢は、義政から義尚に移って行った、と考えられる。
長享元年(西暦一四八七年)九月、足利義尚が近江の六角高頼討伐の陣を発した。
討伐の理由は、
『六角高頼は応仁の乱に乗じて近江の寺社本所所領や奉公衆(近衛兵)の所領を占拠し、幕府による度々(たびたび)の返還命令に従わないため』
とされている。
近江の六角高頼が、王朝由来の荘園制や、室町幕府の封建制を破壊して、実力で近江の諸所領を奪っている、ということだ。
京都のすぐ隣の近江で、このようなことが起きているのである。
しかも、高頼は近江の守護である。室町幕府から近江国の統治をまかされている立場である。それが現体制を破壊しようとしている。
畠山義就の河内に追従するような動きであった。近江も戦国時代に入ったといえる。
まだ、顕在化していない諸国もやがて、似たような動きになる。なによりも、応仁の乱以前とは異なり、諸国の守護大名は在京しておらず、それぞれの国に下がっている。 都に居るのは細川政元くらいであった。
これに対して、足利義尚が出兵したのである。旧体制を維持するためだった。
優勢な幕府軍に対して、六角高頼は南東の甲賀山中に逃亡し、ゲリラ化した。
戦闘が長期化する。
義尚にとっても、長い滞陣になった。その間に何があったのか、それはあまり知られていない。
同時代の公卿、中御門宣胤の日記、『宣胤卿記』には、このように書かれている。
「(義尚は)日常の食事を一切口にしない。ただ酒色に耽るばかりだ」
そして、延徳元年(一四八九年)三月二十六日、征夷大将軍、足利義尚が息を引き取った。
足利義政は朝廷に奏聞した。
征夷大将軍の死に面して、一度将軍職を辞した義政が法体のまま、再度幕政に臨むことができるか。
朝廷からは、
「足利義量が数え十九歳で早世した折、父である義持が将軍不在のまま、幕政を預かったことがある」
と返事があり、義政が代行することを許した。
義政が再び政務に復帰するが、それが無理だったのかもしれない。同年八月に、今度は義政が倒れる。中風だという。現代的に言えば脳血管障害の後遺症である。
動作や言語が不随になったと思われる。
十月に再度の発作に襲われ、そのまま病床の人となった。
そして、翌年一月、義政が死去した。
枕元では、義政の遺言により、最後の息を引き取るまで、蘭奢待が焚かれた。
その年の十二月、今度は河内の暴れん坊、畠山義就も世を去る。その最後の様子は、よくわからない。
年がもう一つ明け、延徳三年の一月には、将軍職を義政、義尚と争った足利義視も鬼籍に入る。
最後に残った畠山政長も二年後の明応二年に『明応の政変』という、細川政元のクーデターにより河内正覚寺を囲まれ、自刃して果てた。
一つの時代が終わり、登場人物達が去っていった。




