銀閣寺(ぎんかくじ)
長享三年(西暦一四八九年)三月下旬。
彼らが会所と呼んでいる片田商店の会議室に集まった。
上座には菊丸が座っていた。
「これが『東大寺』になります」そう言って、雲母の欠片に乗せた香片を香炉に入れた。
会所に香気が漂う。
「いい香りね、風丸、どう」『ふう』が言った。
「ああ、お寺の匂いだな」風丸は二十九歳になっている。立派な大人だった。
「なによ、それ、石英丸はどうなの」
「さあ、私もやっぱり、お寺の匂いだな」
「私もだ」片田が言った。
「無理もありません、香を聞く機会がほとんどなかったのですから」菊丸が言った。
安宅丸は、自分が扱う商品のひとつだったので、皆よりはましだった。
「かなり上物だということは、わかる」そう言った。
「さて、これをどう扱うか、だが」片田が言った。
「今の皆さんの反応のとおり、この香の良さを知ることができる人物は、ごくわずかです」菊丸が言った。
「京都の将軍家、その近臣、藤原氏の方々、大寺院の僧侶などでしょう」
「先の将軍の所に持ち込んでみるか」片田が言う。足利義政のことである。今では息子に将軍職を譲って隠居している。
「そうですね、そこが一番購入してくれそうです」菊丸が同意する。
「しかし、東山殿も、最近手元が不自由だというが、大丈夫だろうか」石英丸が言う。
「まあ、他におもいつかないから、まず東山に行ってみよう。菊丸にも同行してもらうが、大丈夫か」
「平底船で白川を上れば、東山の近くまでいけるだろう」石英丸が言った。
「川端から東山殿までは、四町、四百メートル程だと聞く」
「それならば、私の足でも大丈夫だと思います」
白川は、細い川であったが、水運が整備されていた。なぜならば、白川の上流に重要な商品があったからだ。
その商品とは白砂だった。白川上流は、如意ヶ嶽(大文字山とも言う)と比叡山に挟まれている。このあたりの岩塊は、地底深くから湧き上がってきた花崗岩で出来ている。それが風化、粉砕されて、白川を流れ下る。
川岸に白い砂が堆積する。それが神社や宮廷、寺院の庭園などに使われた。京都の路にも敷かれていたらしい。
竜安寺の石庭、大仙院、慈照寺、南禅寺の庭園などに使われているのが有名だ。
鴨川を上り、四条のあたりで、右の細い川に入る。今ならば祇園のあたりだ、そこから馬に曳かせて川を上る。当時は無かった琵琶湖疎水のあたりで東に向かい、南禅寺の入口で北上する。
『哲学の道』という有名な散策路がある。その脇を流れるのは琵琶湖疎水だ。その琵琶湖疎水と並行して、西側に白川が北上していた。
片田達のいる中世では北小路、現在では今出川通という道が、京都市中から鴨川を越えて東に伸びている。それと白川が交わるところで、上陸する。
Googleマップで探すのであれば『西田橋[浄土寺](白川)』というところである。
船頭と、もう一人の船方が、舟を岸に押し付ける。このあたりの川底は浅い。安宅丸と片田が菊丸の手を引いて、川岸に上陸させる。
「もう、大丈夫です。歩けます」菊丸がそういって、杖を前に差し出した。
東にまっすぐ続く道だった。わずかに登っているので、遠くまで見通せる。歩くに従い、やや登りがきつくなる。現代では土産物屋が両側に並んでいるが、当時は、そのようなものはない。
まばらな畑と林や草原だけの鄙びた景色だった。
左右の尾根がだんだんと狭まってくる。道の突き当りに東山殿があった。
閉じられた木の門の左右に武者が立っている。腹当という腹回りだけの簡易な鎧をつけ、薙刀を持っていた。
片田が名乗り、用向きを伝えると、お待ちしておりました、と中へ案内してくれた。
門に入ると、すぐに右折し、まっすぐな道が伸びている。突き当たると二つ目の門があった。銀閣寺垣があるあたりである。
当時からツバキが植えられていたかどうか、それはわからないが、片田の目には、城構えの一種に見えた。
応仁の乱が終わったとはいえ、乱世である。呑気に山荘を構えているだけではない。
ここに来るまでの直線道路は、来るものをまっすぐ見下ろすようになっており、防御しやすい。外門から入っても、この銀閣寺垣のクランクである、ここに導かれた侵入者は、見通しの良い五十メートル程の直線通路で弓矢の餌食になるであろう。
加えて山荘の両側は急峻な尾根に挟まれていて、大軍を動かすことが出来ない。
山荘と言いながらも、砦の要素がある。応仁の乱の市街戦を経験してきた義政だ、学んだことを生かしているのだろう。
二つ目の門、中門を入ると、右手に小さな社、八幡社があり、左手は、土壁が伸びている。
八幡社の先には、入母屋造りのやや大きな建物があり、その先には外廊下に手摺を回した小さな建物がある。屋根のかけられた回廊で結ばれていた。
大きなものは東求堂で、先にある小さなものは泉殿だ。
いずれも、新しい木の色をしている。
銀閣寺の東求堂は、移築されている。当初建てられた時には、現在の向月台、あの砂で出来たプリンのようなもの、のあたりに建っていた。
少し進むと、右手、小さな八幡社の向こう側に観音殿が見える。これは片田も見分けることが出来た。銀閣である。これも出来たばかりの色をしていたが、まだ内装は終わっていないようだ。
片田が知ってる銀閣と異なり、屋根の頂上には、鳳凰ではなく、宝珠を頂いていた。
三人は左手の土壁が尽きたところにある建物に導かれた。泉殿の向かいに建つ会所だった。現在東求堂が建つ場所にあたる。
会所中央の三間四方の間、『嵯峨の間』に導かれ、ややしばらく待っていると、左手から足利義政が入ってきた。
「しばらくじゃ、片田。失踪したと聞いていたが、無事でよかったのぉ」




