表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
戦国の片田順  作者: 弥一
戦国の片田順 2
333/611

銀閣寺(ぎんかくじ)

 長享ちょうきょう三年(西暦一四八九年)三月下旬。


 彼らが会所かいしょと呼んでいる片田商店の会議室に集まった。

 上座かみざには菊丸きくまるが座っていた。

「これが『東大寺とうだいじ』になります」そう言って、雲母うんもの欠片に乗せた香片を香炉に入れた。

 会所に香気こうきただよう。

「いい香りね、風丸かぜまる、どう」『ふう』が言った。

「ああ、お寺の匂いだな」風丸は二十九歳になっている。立派な大人だった。

「なによ、それ、石英丸せきえいまるはどうなの」

「さあ、私もやっぱり、お寺の匂いだな」

「私もだ」片田が言った。


「無理もありません、香を聞く機会がほとんどなかったのですから」菊丸が言った。

 安宅丸あたかまるは、自分が扱う商品のひとつだったので、皆よりはましだった。

「かなり上物じょうものだということは、わかる」そう言った。


「さて、これをどう扱うか、だが」片田が言った。

「今の皆さんの反応のとおり、この香の良さを知ることができる人物は、ごくわずかです」菊丸が言った。

京都みやこの将軍家、その近臣きんしん、藤原氏の方々、大寺院の僧侶などでしょう」

「先の将軍の所に持ち込んでみるか」片田が言う。足利義政よしまさのことである。今では息子に将軍職を譲って隠居している。

「そうですね、そこが一番購入してくれそうです」菊丸が同意する。

「しかし、東山殿ひがしやまどのも、最近手元が不自由だというが、大丈夫だろうか」石英丸が言う。

「まあ、他におもいつかないから、まず東山に行ってみよう。菊丸にも同行してもらうが、大丈夫か」

平底船ひらぞこぶね白川しらかわのぼれば、東山の近くまでいけるだろう」石英丸が言った。

川端かわばたから東山殿までは、四町よんちょう、四百メートル程だと聞く」

「それならば、私の足でも大丈夫だと思います」




 白川は、細い川であったが、水運が整備されていた。なぜならば、白川の上流に重要な商品があったからだ。

 その商品とは白砂はくしゃだった。白川上流は、如意ヶ嶽にょいがたけ(大文字山とも言う)と比叡山ひえいざんに挟まれている。このあたりの岩塊がんかいは、地底深くから湧き上がってきた花崗岩かこうがんで出来ている。それが風化ふうか、粉砕されて、白川を流れ下る。

 川岸に白い砂が堆積する。それが神社や宮廷、寺院の庭園などに使われた。京都みやこみちにも敷かれていたらしい。

 竜安寺りょうあんじの石庭、大仙院だいせんいん慈照寺じしょうじ南禅寺なんぜんじの庭園などに使われているのが有名だ。




 鴨川かもがわを上り、四条のあたりで、右の細い川に入る。今ならば祇園ぎおんのあたりだ、そこから馬にかせて川を上る。当時は無かった琵琶湖疎水びわこそすいのあたりで東に向かい、南禅寺の入口で北上する。

 『哲学の道』という有名な散策路がある。その脇を流れるのは琵琶湖疎水だ。その琵琶湖疎水と並行して、西側に白川が北上していた。

 片田達のいる中世では北小路きたこうじ、現在では今出川通いまでがわどおりという道が、京都市中から鴨川を越えて東に伸びている。それと白川が交わるところで、上陸する。

 Googleマップで探すのであれば『西田橋[浄土寺](白川)』というところである。

 

 船頭せんどうと、もう一人の船方ふなかたが、舟を岸に押し付ける。このあたりの川底は浅い。安宅丸と片田が菊丸の手を引いて、川岸に上陸させる。

「もう、大丈夫です。歩けます」菊丸がそういって、つえを前に差し出した。


 東にまっすぐ続く道だった。わずかに登っているので、遠くまで見通みとおせる。歩くに従い、やや登りがきつくなる。現代では土産物屋みやげものやが両側に並んでいるが、当時は、そのようなものはない。

まばらな畑と林や草原だけのひなびた景色だった。


 左右の尾根がだんだんとせばまってくる。道の突き当りに東山殿があった。


 閉じられた木の門の左右に武者が立っている。腹当はらあてという腹回りだけの簡易なよろいをつけ、薙刀なぎなたを持っていた。

 片田が名乗り、用向きを伝えると、お待ちしておりました、と中へ案内してくれた。


 門に入ると、すぐに右折し、まっすぐな道が伸びている。突き当たると二つ目の門があった。銀閣寺垣ぎんかくじがきがあるあたりである。

 当時からツバキが植えられていたかどうか、それはわからないが、片田の目には、城構しろがまえの一種に見えた。

 応仁の乱が終わったとはいえ、乱世である。呑気のんきに山荘を構えているだけではない。


 ここに来るまでの直線道路は、来るものをまっすぐ見下ろすようになっており、防御しやすい。外門から入っても、この銀閣寺垣のクランクである、ここに導かれた侵入者は、見通しの良い五十メートル程の直線通路で弓矢の餌食えじきになるであろう。

 加えて山荘の両側は急峻な尾根に挟まれていて、大軍を動かすことが出来ない。


 山荘と言いながらも、とりでの要素がある。応仁の乱の市街戦を経験してきた義政だ、学んだことを生かしているのだろう。


 二つ目の門、中門なかもんを入ると、右手に小さなやしろ八幡社はちまんしゃがあり、左手は、土壁が伸びている。

 八幡社の先には、入母屋造いりもやづくりのやや大きな建物があり、その先には外廊下そとろうか手摺てすりを回した小さな建物がある。屋根のかけられた回廊かいろうで結ばれていた。

 大きなものは東求堂とうぐどうで、先にある小さなものは泉殿いずみどのだ。

 いずれも、新しい木の色をしている。

 銀閣寺の東求堂は、移築されている。当初建てられた時には、現在の向月台こうげつだい、あの砂で出来たプリンのようなもの、のあたりに建っていた。


 少し進むと、右手、小さな八幡社の向こう側に観音殿かんのんでんが見える。これは片田も見分けることが出来た。銀閣ぎんかくである。これも出来たばかりの色をしていたが、まだ内装は終わっていないようだ。

片田が知ってる銀閣と異なり、屋根の頂上には、鳳凰ほうおうではなく、宝珠ほうじゅいただいていた。


 三人は左手の土壁が尽きたところにある建物に導かれた。泉殿の向かいに建つ会所だった。現在東求堂が建つ場所にあたる。


 会所中央の三間四方さんけんしほう、『嵯峨さがの間』に導かれ、ややしばらく待っていると、左手から足利義政が入ってきた。


「しばらくじゃ、片田。失踪しっそうしたと聞いていたが、無事でよかったのぉ」


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ