伽羅 『東大寺』(きゃら 『とうだいじ』)
副長に率いられた船員達が、大八車二台一杯に香木を載せて帰ってきた。『大八車』という言葉自体は江戸期以降に使われたそうだが、同じ構造の車は古代からあった。
例えば、平安時代に上皇や摂政が乗った唐車は、壁と屋根を取り払ってしまえば、大八車と同じ構造である。
車が片田商店の入口にかかる。商店に入るために、道から敷地に向けて車を回した。
後ろの大八車が道の轍を跨いだときに、車が揺れ、香木が一本落ちる。船員達は、どれが菊丸の言う国宝級の香木かわからないので、一本たりと疎かに出来ない。
車の後ろにいた船員が、振り返って落ちた香木を拾おうとする。
振り向いた先に黄色い犬がいた。犬はなにを思ったのか、落ちた香木を咥え、後ろ向きにヒョコヒョコと歩き去ろうとした。
「待て、このやろう、それ置いて行け」船員が手近の、人間の脛程の長さの香木を掴み、犬を追いかけた。
“まあ、どれが菊丸の言う香木なのか、わからないのだから、しかたない”副長は彼が追うにまかせ、二台の車を進ませ続けることにした。
片田商店の『離れ』の土間に荷台から香木を降ろす。
菊丸が副長に『東大寺』と呼ぶ、見本になる木片を渡す。
「似たようなものはありますか。あるいは、これと繋がるような木片でもいいです」
十名程の船員達が、まず色で香木を分けた、枯木のような色をしたものは除き、見本のような濃い色の部分がある物だけを残す。大部分は枯木色だった。
濃い色をした香木は、二、三十本ほどだった。
次に彼らは、枯木色の木片に取り掛かり、一部が変色しているものを探す。
菊丸は、香炉に熾火を入れ、濃い色をした木片の鑑別を始める。
「これじゃないかな、見本を貸してみて」シンガが言った。人間の肘程の長さの枯木色の木片だったが、端の方が少し黒い。見本を受け取ったシンガが、黒い部分に当ててみる。
ぴたり、と嵌った。
「これだ、ぴったりだよ」
「それをください」菊丸が急かすように言う。シンガが見本を当てたまま香木を渡した。
菊丸が手探りで、見本と香木の継ぎ目を確かめる。
「たしかに、ここから欠けた木片のようですね。お手柄です、シンガ」
菊丸が、合わせ目の脇のあたりを少し削り取り、香炉に焼べた。
「間違いありません、これも『東大寺』です」菊丸が嬉しそうに言った。
「でも、反対側が少し軽いような気がします。手触りもよくありません。反対側を試してみましょう」
菊丸が反対側を削り、聞いてみる。香の場合は、『嗅ぐ』、とは言わず、『聞く』という。
「これは、駄目ですね、こちら側は香になっていません。シンガ、あなたの目で見て、この香木はどのように見えていますか」
「そうだなぁ、見本が付く端の方が、ほんの少し黒くなっていて、あとはほとんど枯木色だよ。だから、最初は枯木の方に入れておいたんだ」
それを聞いた菊丸が、手伝いの女性に言った。
「奈津さん、この香木が入るくらいの盆に水を入れて持ってきてくれませんか」
奈津と、それを手伝う船員一人が出て行って、帰ってきた。
「この香木を水の中に入れてみましょう」そういって、菊丸が盆の縁から香木を滑り入れた。
「黒い端が、お盆の底に着きそうだけど浮いている、あとはほとんど浮いているよ」シンガが言う。
「そうですか、では中の方も期待できそうにありませんね」菊丸が、がっかりしたような言い方をした。
「おそらく、これを採取した人が、大きい香木だったので折ったのでしょう。その折れ目の部分の一方が名香で、反対側が、枯木だったのです」
「境目のところで硬さが異なりますから、そこで折れたのです」
「そして、残念ながら、こちらは枯木の方です」
「先ほど、濃い色に分けた方に、この端と繋がるような香木はありませんでしたか」菊丸が、まだ彼が鑑別していない濃い色の香木を調べ直してみてくれるように言った。
未鑑別の、濃い色の香木はいくらもない、どれも合わないのが、すぐにわかった。
副長をはじめ、皆がっかりした。国宝級の香木であったならば、さぞかし高く将軍様あたりに売れただろう。そうなれば、彼らにも売上の一部が報酬として入ってくるはずだった。
沈香は、字のごとく、水に入れると沈む。普通の枯木は水に浮く。
沈香の元になる木は、熱帯アジアに分布する沈丁花の仲間の木である。しかし、その木が枯れても、それだけでは沈香にならない。
枯木になる前、木が生きているときに、幹のところを、虫が喰ったり、傷をつけられたりしたりしたものが、香木になる。
傷ついたところに、防御として、木自身が樹脂を発生させる。その樹脂が香りの源である。
樹脂は水より重いので、樹脂を多く含む良質の沈香は、水に沈む。
特に、樹脂の割合が非常に多い物を、特別に『伽羅』と呼ぶことにしている。樹脂の割合が五割以上だそうだ。
このような過程で香木が出来るので、枯木一本がまるまる香木になる、と言うわけでもない。樹脂を発生させた一部だけが香木となる。しかも、良い香木になるためには、枯死してから、五十年、百年の時が必要とされているという。貴重なものなのである。
「副長、今戻りました、遅くなってすいません。艦長に用事を言いつけられたもんで、遅くなりました」
さっき犬を追いかけていった船員が戻ってきた。
「艦長にか」
「はい、商店に良い波羅蜜が入ったので、艦で当直しているやつらに持って行ってくれ、と頼まれました」
「で、届けてきたのか」
「はい」
ならば、これくらいの時間はかかるであろう、副長はそう思って、船員の言い分を了承した。
波羅蜜は、この地方で採れる果物である。
船員は信玄袋のような布袋を肩から下げていた。
「波羅蜜を持つとき、邪魔になるだろう、ということで艦長が貸してくれました」
そういって、袋を降ろし、中から香木を取り出す。
「とりかえしてきましたよ」
一つ目は犬が咥えていった、筆ほどの長さの小枝。もう一本は、彼が棍棒代わりに拝借した、人間の脛程もある大きさの、黒い香木だった。
シンガがそれを受け取り、盆から取り上げた香木と合わせてみる。
ぴたり、と合った。




