第一次筒井城の戦い
誤字報告をしていただき、ありがとうございます。
自分の文の誤りは、見つけにくいので、助かります。
畠山義就に追われた弥三郎は、筒井氏を頼った。その当時の筒井氏の主は、興福寺一条院の僧、光宣と、光宣により筒井の惣領にさせられた順永である。彼らは大和盆地の中ほどの筒井城に居る。立野氏の領地の東方にあたる。
一方の義就は、河内で戦に備え改革を始める。まず田舎市の数を増やした。公然と“抜け荷”をするようになり、銭を蓄えた。「戦のときには、武士と百姓の違いはない」と宣言し、河内に住む者は全て、戦の時には兵になるとした。恩賞も区別しない。長期戦に備えて兵糧も蓄えた。
「座の領家である寺社は、銭を蓄えても、利殖するか、歌舞音曲で遊ぶ程度だ。やつらに銭の使い方を教えてやる。銭は戦うために蓄えるのだ」
家臣の前でそう言い放った。
年が明けて三月、義就の父、持国が死去し、義就が家督を相続した。河内国内で、弥三郎派との戦闘が始まったが、これは春のうちに義就が一方的に勝利した。
六月末、降伏した弥三郎派の兵を合わせ、義就は大和に進出した。義就の大軍は竹内峠を越えて、当麻寺の付近に出る。
遊佐国助の別動隊は、水越峠を越えて宇智郡に進出する。
義就軍は、当麻寺から北上した。途中の、筒井党の箸尾氏、片岡氏が守る城に、それぞれ数百の兵を当てながら、筒井城の南正面に進出した。
七月二日、光宣、順永は南面の義就軍に野戦を仕掛けたが失敗し、籠城した。
そのころ、遊佐の別動隊は、越智氏などとともに、宇智郡に散らばり乱暴や略奪を行っていた。
それらの村の乙名衆はたまりかねて、義就の陣に駆けつけてくる。
「宇野荘、どこだ。ああ、宇智川のところか。主は、吉水院、吉野の神社か。よし、越智にくれてやれ」
宇野荘という荘園は、吉水院の荘園であったが、今後は年貢を越智氏に納めることを条件に、略奪停止の制札を発行することにした。この制札を村で暴れている兵士のところに持っていけば、彼らは引き上げることになる。
「つぎは、須恵荘か、二見の目の前だな。主は、観心寺って、河内の観心寺か。めんどくさそうだな。これは十貫だけ取って、そのままにしておこう」
観心寺は、義就の河内国の寺院であったので、今回は十貫の銭を納めるだけで制札を書いてやった。
「つぎ。桃島荘、野原のやつのところか。あいつ今回は従わなかったからな。主はどこだ、西大寺か。ちょうど二見の対岸だな。二見にくれてやれ」
桃島荘は、二見氏の領地から吉野川を挟んで対岸にあるところだった。荘園の主は大和の西大寺だったが、今後は地元の国民である二見氏に年貢を納めることを約束させて制札を書いてやることにした。野原氏と異なり、二見氏は西大寺に年貢を納める義務はない。野原氏は、今回の戦に参加しなかったことで、追放されることになった。
宇智郡の始末が終わり、遊佐国助と越智家栄の軍を呼び戻すことにした。ひと月以上の対陣である。片田の運河が、河内から大和へ兵糧を運ぶにあたり大活躍した。
八月十九日、義就は総攻撃を命じた。軍は筒井城の南と西から、総がかりした。筒井城はその日に落ち、光宣と順永は城を抜け出していった。
筒井の土地と、宇智郡は、義就のものとなった。
もうすぐ大飢饉が来る。などといえないのが苦しいところである。片田は思った。それでも、片田の勧めで、田の畔には、大豆が植えられていた。村人は空き地に蕎麦や麦、雑穀などの種をまき、サトイモを植えた。余った穀物は粉末にし、せんべいのように焼き、加熱消毒した壺に密閉して保存食とすることにした。
山の頂上付近には、城が出来上がりつつあった。密閉した保存食は、城で保存する。
そのときになって、どれくらいの人数が片田の村に来るだろう。一万人か、二万人か、見当もつかなかった。




