イスラム式商取引
安宅丸が船尾楼甲板に立っていた。接岸作業を監督するためだ。彼の立つ位置から、左舷のシンガが見える。
見ず知らずの土地の、見慣れぬ風俗に夢中になっているようだった。
十年前も、そうだったが、なぜ孤児ばかり、彼の前に現れるのか。仏が、罪を償えと言っているような気がした。
艦からロープが投げられ、埠頭にいる男たちが注意深くそれを引き、『川内』が接岸する。埠頭の男たちが太い柵にロープを結びつけた。
『川内』から岸壁に向かって、踏板が降ろされた。
港湾の管理官が踏板を登り、安宅丸の所にくる。
「船名と、出発港を申告してください」管理官が言ったが、顔見知りである。
「『川内』、出発港はシンガプラ、艦長は私、安宅丸だ。積み荷の控えはこれだ」そういって安宅丸が管理官に積載してきた商品の一覧を渡した。綿の服や綿布が多かった。
「シンガプラからですか、それはご苦労様です」
なにが『ご苦労様』なのだろうか。冬のこの時期、南シナ海の季節風は北東風だ。北東側から南西に向かって風が吹く。
シンガプラからクニヨンへは、真北に航海しなければならない。普通ならばこの季節にそのような航海はしない。どうしても冬に北に向かわなければならない時には、貿易船の周囲に三艘の小舟を配置して、櫂を使って渡ってこなければならない。
“(南シナ海で無風状態になった時)これに備えてシナのジュンクはそれぞれ三隻の小舟を連れていて、漕いだり牽かしたりして進むのである。本船でもラアラー、ラアラーと掛け声して二〇挺ほどの大きな艪をこぐ。そして美しい声で歌う”
「三大陸周遊記」イブン・バットゥータ、前嶋信次訳、河出書房新社、1977年、277ページ
安宅丸の『川内』には外輪があり、機走できるので、特に苦労は無いのである。管理官もそれを知っていたが、習慣的に言ったまでの事だろう。
港の管理官が副官に伴われ、下甲板に降りて行った。積み荷の実物を確認するためだ。
大越はイスラム教国ではなかった。けれども、クニヨン港の経営はイスラム教国の港経営の方式に従っているようだった。
・交易船は到着したら、港に入港する(港の外に停泊し続けてはいけない)
・入港した交易船は管理官による積み荷の検査を受ける
・検査が終了したら、すみやかに積み荷を陸揚げする
・陸揚げした積み荷は商人が所有する商館や港の倉庫に格納する
・交易船には最低限の要員を残し、それ以外の船員は上陸すること
・商取引は双方の合意により成立する(押し売り、押し買いの禁止)
・商品売却時には、利益に対して一定の関税を港に支払うこと
・出港時には、定められた港湾使用料を支払うこと
などである。いま思いつくのは、これくらいで必要ならば追記しようと思う。
これらの背景にはイスラム教のモラルがあるらしい。私は関連する本で読んでいるだけなので、間違っているかもしれないが。
土地から出るもの、農作物でも、鉱物でも、宝石でも、それらは神からの預かり物だと、イスラム教徒は考える。自分は生きるためにそれらを取引するのだが、その取引は神の前で、公正であらねばならない。何をもって公正とするか、それは、取引に両者が合意すれば、その取引は公正といえるだろう。
そのように考える。なので、イスラム教徒どうしの取引は信用できる。
子供の頃、アラビア半島で発生したイスラム教が、なぜインドネシアあたりまで広がったのか、とても不思議だった。イスラム教普及の背景には、商取引の信用があったのかもしれない。
上に箇条書きしたことは、当たり前のことが書いてあるようだが、それは現代から見ているからだ。
例えば、ヴァスコ・ダ・ガマが一四九八年五月にインドのカレクト(現在のコーリコード、以前はカリカットとも言った)に到着したときには、これを守らなかった。
猜疑心の強かったガマは、港の外に停泊し、積み荷を容易に陸揚げせず、船員も上陸させず、一部の使者か本人のみが上陸した。
未知の土地で、イスラム教徒の商人も多数いたので、警戒したのであろう。
しかし、これらのことが現地の商習慣に会わず、港の人々は奇妙な振る舞いをするガマ達を海賊ではないか、と疑うことになった。
結局、商品は陸揚げされたが、売れ行きが悪く、カレクトに若干のポルトガル人を商品とともに残すことにした。
八月になり、ガマが帰国すると言い出すと、カレクトの役人はガマの使者を監禁した。
ここは想像だが、関税も港湾使用料も支払わず、いきなり帰国しようとしたのではないかと思われる。そうでなければ、監禁などという手段に訴えないだろう。
加えて言うと、八月は貿易風がアフリカからインドに向いており、出航の時期ではなかった。ここでも、カレクトの住民は、アフリカに向かうのではなく、なにか別の意図があって出航するのではないかと疑ったのかもしれない。
使者の監禁に対して、ガマは現地住民を拉致することで対応した。ヨーロッパ式『目には、目を』である。
両者の溝は決定的になる。双方が人質交換交渉など緊張緩和の試みを行ったが、最後は約七十隻の武装小船に追われるようにして、ガマはこの地を去ることになる。
去るにあたっては、武装小船群に対して、彼の旗艦『サン・ガブリエル』号に装備していたボンバルダ砲をぶっぱなすことだけは忘れなかった。
当地の習慣を知らないポルトガルと、インド洋貿易圏の最初の遭遇は不幸なものであった。
港湾管理官が退艦した。積み荷の陸揚げが始まる。目の前のクニヨン片田商店に併設された商品倉庫に搬入する。
シンガも軽い物の運搬に従事した。“これは金がもらえる方の仕事だ”、彼は思った。
商品の運び出しが終わり、船員達は自由時間になる。税関も、出入国管理局もないので、すぐに港町に繰り出す。
シンガは料理長に付き従うことになった。安宅丸から一人で行動するな、といわれていた。
「新太、よく覚えて置け、この地の人に絶対してはいけないことだ」
「シンガだよ、なんだい料理長」
「人の頭に触るな。どんな場合でもだ」
「この土地の人々は、頭に触られることを嫌がる。触られると、ひどい場合にはこちらに殺意をいだくほどだ」
「そうなのか」
「ああ、だから絶対に頭に触るんじゃないぞ」
「わかったよ」
頭をさわられることを嫌がる、というのはチャンパ王国の風習だった。片田商店はこの港がチャンパ王国のものであったときから商売をしていたので、当時の商人達からの申し送りだったのだろう。
チャンパ人が頭を触られることを嫌がる、という風習を持つことは、費信が残した『星槎勝覧』という書物に記されている。
費信は鄭和の南海遠征に四回、兵士として参加している。
“番人戯之触弄其頭必有生死之恨”
星槎勝覧 占城国
龍谷大学図書館の貴重資料画像データベースより、私が読み取ったので、間違っているかもしれない。




