シンガ
南シナ海では、冬の時期には北から南の貿易風が吹く。
安宅丸の機帆船『川内』はシンガプラから出発し、現代の南ベトナムの港に向かっている。クニヨンという名前の港だ。明人は新洲港と呼んでいる。
南から北に航行しているので、帆を降ろし、蒸気機関で機走している。
当初は堺から直接クニヨンに向かい、当地で香木を購入して、春に堺に帰る予定だった。ところが、片田がシンガプラに三日熱対策を伝えて欲しい、と依頼したのでこのような航海になった。
帆船では船尾が上等な場所である。
なぜならば、帆船は風を受けて、主に風下に向かって帆走する。なので、船尾が風上となり、船内の悪臭が漂ってこない。
しかし、現在は風上に向かって機走しているので、船尾の船室に悪臭が流れてくる。
上甲板の尾部にある艦長室に安宅丸と菊丸がいる。
菊丸の鼻が、それらの悪臭をとらえる。失明してから、以前より嗅覚が鋭敏になったような気がする。
「ネズミが、ずいぶんと増えたような気がする」菊丸が安宅丸に言った。
「そうか、クニヨンで猫でも求めるか」
「その方がいいかも」
菊丸が結び目のある糸を繰りながら言った。彼は二十二歳になっていた。
彼が持っている糸は、帆布を補強する糸だった。『タコ糸』くらいの太さがある。糸の途中をつまんで、『竹ひご』を使って器用に結び目を作る。その結び目は十数種類あるらしく、菊丸の指先はそれらを探り分けることができた。
安宅丸に仮名文字五十音を習ったので、例えばアは一の結び、イは二の結びに割り当てた、カは一と一を近くに結ぶ、キは一と二で表す。
このようにして、十種類の結び目を数字にあてて五十音を表した。残りの数種類は、ここから数字が始まる、とか仮名がはじまる、などの制御文字として使っている。
安宅丸もこの結び目文字を、かろうじて読めるようになっていた。彼の場合は目が見えるので、結び目を直接見ればいい。
結んだ糸は、『すりこ木』のような棒に巻き付ける。すりこ木の端には穴が開いていて、そこにも結び目と付けた糸を結ぶ。この糸はタイトルだ。日付とか、特定の事柄について考えたことなどを結ぶ。
菊丸は、糸が絡まないように、常に注意していたが、それでも時々縺れてしまうこともある。そうなると目の見えない菊丸にはどうすることもできない。
そのようなときは、安宅丸や、仲の良い士官に解してもらう。
今も安宅丸に縺れた糸を解いてもらっていた。
「ん、誰か来るね」菊丸が言った。
誰かが艦長室の扉を叩く。『川内』は貿易や探検が主任務だったが、砲も備えている。戦時には戦闘任務にも就く、なので船長ではなく、艦長と呼ばれていた。
「はいれ、鍵はかかっていない」安宅丸が言った。
「艦長、密航者を捕まえました」
「密航者だと、どこにいた」
「船底の割石の間に隠れていました。汚いので、今上甲板で洗っています」
「わかった、同行しよう」安宅丸が糸を置き、菊丸を残して出て行った。
「艦長が来た。覚悟して艦長の方を向くがいい」
「あっ、痛いよ。わかったから」そういって振り向いた。十歳か十一歳くらいの子供だった。色が浅黒い、顔立ちから見てムラユか、と安宅丸が思った。ムラユとはマレー人のことである。
船底に隠れていたところを料理長が見つけた、とのことだった。
「なんで、見つけたのか」
「船底で大豆モヤシを栽培しています。その様子を見に行った時に見つけました」料理長がいった。
船底に行きたがる者は少ない。食料や水、燃料などを取りに行くくらいだ。料理長が見つけたのは、合点がいく。
“それにしても、あそこでモヤシを栽培していたのか“安宅丸は思ったが、口には出さなかった。
「もちろん、ネズミに食われないように、密閉して栽培しています」安宅丸の顔色を見た料理長が言わずもがなのことを言う。
非番の男たちが集まってくる。
「おまえが密航者か」安宅丸が尋ねる。
「ああ、そうだよ。いや、はい」
「どこから乗ってきた」
「シンガプラからだ、からです」
「では十日も船底に隠れていたのか」
「そうだよ、いえ、そうです。艦長殿」
「ムラユだな」
「そうです。ムラカで育ちました。対岸のタンジュン・プテリから渡って来ました」ムラカはマラッカ、タンジュン・プテリはジョホールのことで、当時は漁村だった。
「幼いが、両親はどうした」
「少し前に、海賊に殺されました。兄弟もです。Saya、いえ、私一人になりました」
「それで、密航したのか。何故だ」
「外国に行きたかったのです」
「外国にか。ところで、ずいぶんと日本語が上手だな」
「言葉を覚えるのが得意なのです。南部中国語、マラヤーラム語、アラビア語も覚えました。外国に行けばもっと多くの言葉を覚えられます」
マラヤーラム語は、インド南部で使われている言語。コーリコード(カリカット)やコーチ(コーチン)あたりで使われている言葉だ。
これらの言葉は、アラブやインドの貿易商人から覚えたのだろう。
「それで、言葉を覚えてどうする」
「通訳になれば、食っていける、いえ、食べていけると思ったのです。艦長殿」
『川内』には、日本人だが南部中国語が少しわかる者がいた。
「すこし、中国語で小僧に尋ねてみてくれ」
その男が、一言二言、尋ねてみた。
「●※☆彡■!#?、▼△◇@$&&*!@##$%%^&*()〇」小僧がまくしたてた。
「みごとなもんです。これは本物の南部中国語です」男が感心して言った。
中国人、アラブ人、インド人は昔からこのあたりで交易している。人口も多い。日本人は新参者だった。日本語がこれほど達者ならば、他の言語は、なおさら流暢にしゃべれるのだろう。
「わかった、それで十日も船底にいて、食事はどうしていた」安宅丸が尋ねる。
「それは、夜中に樽を開けて、少し食べさせてもらった」少年が、すこし小声で言う。
「密航は、重罪だ。加えて、艦内での窃盗も重罪だ」安宅丸が言う。
「重罪って、なんだ」中国語がわかる男が説明する。
少年が黙った。
「名前は、何という」安宅丸が名を問うた。
「シンガ。シンガという名前だ」重い罪だと言われて、元気が無くなった。
シンガとはサンスクリット語で『虎』という意味だった。シンガポールの名の由来だ。
「では、シンガの罰については、別途言い渡す。それまでは料理長に預ける。今以降、判決が下るまでの食事、衣類などについては、捕虜と同等に扱うこととし、支給する」
艦内では、艦長が司法警察権を持つ。これは船という閉じられたところで、長期に集団を統率するために必要だった
艦長は厳しすぎると反乱を誘発する。しかし甘くなりすぎても規律が保てない。
菊丸が、ネズミの臭いがする、といっていたのは、シンガがネズミの居場所を占領したので、ネズミ達が上に移動したのが原因だったのかもしれぬ。




