翡翠(ひすい)
茜丸の邸を出た片田は、少し考え事を整理したかった。なので、まっすぐ片田商店に戻るのではなく、海の方に足を向けた。
茜丸の邸は大小路筋と紀州街道が交わるあたりにある。堺の中心部だ。
そこから、大小路を西に向かって歩く。海に突き当たると、右側が戎島の造船所、左側が米座だった。
正面は海だ。その向こうには難波の海を挟んで六甲の峰々(みねみね)が右から左へと連なっている。それが切れた先には淡路島が横たわる。
秋の澄んだ空気を通して、手に取れるようにはっきりと見える。
片田は半刻ばかり、それらを眺めていた。ゆっくりと動く白い帆、海面に水光がキラキラと輝いている。
「よし、決めた。腹をくくった」やがて、片田がそう、海に向かって言った。
私の仕業で、少なくない人が死ぬ。しかし、それをしなければ、その数万倍、数百万倍の人々が死に、酷使され、住んでいた土地を追われる。
茜丸が言ったではないか、多くの人を救う可能性があるのならば、孫娘に種痘を試してみるかもしれぬ、と。
片田がいる時代から幾らもしない未来にスペイン人がアステカやインカで行ったことを、彼は知っている。現代程詳しくはないが、それでも大変な仕打ちであったことは知られていた。
そのあと、北アメリカ大陸でインディアン達がどのようになったかも、知っていた。
片田が意を決して、海沿いを南に歩く。米座の次に並ぶのが野菜市場、魚座、そしてその先、堺の町の南の端あたりは雑多な商品を扱う場所になっていた。
その片隅に鉛屋の店がある。かなりの大店だった。初期には石炭、次いで方鉛鉱を片田村に売って稼いでいた。
後に石炭は片田商店が北九州で自給することになったので、そちらは途絶えたが、いまでも、方鉛鉱、砂鉄、鉄鉱石、黄銅鉱をはじめ、いろいろな鉱物を片田商店に納めている。
「鉛屋、いるかい」片田が鉛屋の暖簾をかわして、声をかける。
「主人ですか、少々お待ちください」そういって、小僧が店の奥に走る。
「片田の『じょん』か、最近国から帰ってきたそうだな。っていうか、お前、若いな」鉛屋が出て来て言った。
鉛屋とは四十年も前に、矢木の市で焼き鳥を頬張った仲だった。片田が現代に戻っている間に、こちらでは十五年の年月が流れている。
「どうしてた」片田が挨拶代わりに尋ねる。
「どうしてたって、石英丸や鍛冶丸が次々と変わった鉱物を探してこい、というもんだから、大忙しだ。おかげさまでな」
「そうか、それは良かった」
「まあな」
「追加で頼みたいものがあるんだが」
「『じょん』もかい。なにを探してほしいんだ」
片田が懐から薄緑色の鉱石をとりだした。
「これなんだが」
この鉱石は、翡翠といって、楠葉西忍さんが明に渡ったときに、片田の依頼で購入してきた鉱石見本の一つだった。
「これは翡翠だな。翡翠を探してこい、っていうのか」
「ああ、そうなんだが」
「そりゃあ無理だな。この国で翡翠は出ない。これは中国、朝鮮、南蛮の方にしかない」
鉛屋が、そういうのも無理はなかった。この時代には糸魚川の翡翠産地は忘れ去られていた。再発見されるのは昭和になってからである。
糸魚川の翡翠は、古く縄文時代から知られていたらしい、青森県の三内丸山遺跡や山梨県の天神遺跡で出土しているので、交易品にもなっていたのだろう。
国内だけではなく、朝鮮半島や中国にも輸出されていたとされている。
古墳時代の勾玉にも、翡翠製のものがある。
それが、西暦八世紀頃、奈良時代になるころに、何故か忘れ去られることになる。仏教の伝来が原因だという説があるが、何故翡翠を珍重しなくなったか、その理由は良く分かっていない。
昭和になり、糸魚川出身の相馬御風という文学者が『古事記』の大国主神話に登場する沼河比売の話や、万葉集の歌などから、糸魚川に翡翠が産出するのではないか、と推測した。昭和十年(一九三五年)頃のことだそうだ。
この推測に興味を持った人々が糸魚川町(現在は糸魚川市)を流れる姫川の上流で翡翠を探したところ、本当に翡翠を発見してしまった。
相馬御風の推測が正しかったことになる。
この相馬御風、早稲田大学校歌『都の西北』、童謡『春よ来い』などを作詞している。
そして、翡翠は二〇一六年、日本鉱物科学学会により、日本の国石、国の石となった。
「ところが、あるんだ。この国にも翡翠が」片田が得意そうに言う。
「どこにだ」
「越中と越後の間あたりだ。ヌナカワ、あるいは姫川という川が流れている。その川の上流にある。蛇紋岩の中にある白っぽい石を探して割ってみてくれ」
「ほんとうか」鉛屋が半信半疑で答えるが、以前片田が石炭の産出場所を言い当てたことを覚えていた。
「まあ、そう言うんだったら、試してみよう。ところで、焼き鳥食いに行くか」
「ああ、そうしよう」二人が笑った。




