理科年表
片田が堺に到着してから数日が過ぎた。
堺の片田商店所在地は、昔と同じく戎島造船所の正面にあったが、その広さは数倍になっていた。
豆蔵さんの醤油蔵も応神天皇陵から堺に帰って来ている。天皇陵にあると、塩を堺で積み替えて陵まで運ばなければならない分高くつく。
今日は片田を迎えての商店幹部会が開かれた。
「なんだとう」鍛冶丸が吠える。
「いまさら、それはないだろう」造船所の中筋の太助、味噌屋の磯丸達が嘆く。
「ひさしぶりに帰ってきたと思ったら、それか」造船所のお調子者、酒屋の浜助が呆れる。
「まあ、まあ、『じょん』が、あえてそのようなことを言う、というのは何か理由があるのだろう。もうすこし『じょん』の話を聞いてみよう」石英丸が、とりなす。
「長さや重さの単位を変えるのには理由がある。いま、黒板に書いた単位を使うと、便利なことがある」
黒板には、
長さ : 一丈=十尺=百寸 => 三メートル=三百センチメートル
容積 : 一升=十合=百勺 => 一.八リットル=一八〇〇ミリリットル
重さ : 一貫=百両=千匁 => 三.八キログラム=三八〇〇グラム
と書いてあった。
メートル法を採用しよう、という片田の提案であった。
「この、メートル、リットル、キログラムという単位を使うことによって、とても便利になることが、二つある」
「なにが便利になるんだ」
片田がリュックサックから、JISマークの打たれた三十センチメートルの金属製直尺を三本取り出す。
「今後、この『ものさし』を単位系の基準にする。非常に精密につくられたもので、精度は二桁以上ある」
「その三本の『ものさし』の長さの差が数百分の一以下、っていうことか」
「そうだ」
「それは、すごいな」彼らが普段使っている『ものさし』にそれ程の精度はない。
「この『ものさし』で十センチメートル立法の升をつくったとき、そこに入る水の量が一リットル。そして、一リットルの水の重さを一キログラムとする。すべて、この『ものさし』から、単位が決まる」
長さから、容積や重さが決まる、というのは、彼らには新鮮だった。
彼らが使っている尺や升や貫は、『昔から、そうと決まっていた物』だったからだ、その長さや重さに決まっている理由はなかった。
どれくらい昔から決まっていたかと言うと、大宝律令に定められているという。古代中国で決められていた物を輸入したものだった。
尺と升と貫の間に関係性は無い。
例えば、尺は、昔の人が肘から指先までの長さを尺としよう、というふうな感じで、それぞれ独立に決められたのであろう。
それを、『ものさし』だけを使って容積も重さも決めてしまおう、と片田は言っているのだった。
メートルも、それが制定された当時は『地球の北極から赤道までの距離の一〇〇〇万分の一』と決められていた。地球の長さならば、限りなく不変で公平であろう、と考えた。
メートル法公布時のスローガンは「すべての時代に、すべての人々に」だった。
「長さの基準が出来る、というのはいいことだと思うけれども、でもそれだけでは単位系を変える理由にはならないな、その『ものさし』の三十センチメートルか、それを今までの一尺と定義して、尺を使っても同じことだ」
「そうだ、そうだ。容積も重さも同じだ」
JISマークを尺原器として認めるが、使用する単位は尺貫法でいいだろう、ということだ。
「新しい単位系を採用した二つ目の理由がこれだ」そういって、片田がリュックサックから『理科年表』を取り出す。
「私の国で出版されている、『理科年表』というものだ。このように、たくさんの数字が書かれている。この数字は、新しい単位を基準にして測った数字だ。なので、新単位系を使えば、この書物に書かれている知識が全て使えることになる」私の国って、どこの国だよ、というツッコミは無かった。
「もう少し説明してほしい」鍛冶丸が言った。
「そうだな、たとえば鉄の密度は、どれくらいだ、鍛冶丸」
「五十六匁だな」鍛冶丸が即答する。化学工場などを作るとき、普段から使っている数字だから暗記している。
「そうだな。一寸立法の鉄の重さは五十六匁だ。これを新しい単位系で表すと、一寸立法は二十七ミリリットル、五十六匁は二百十三グラム、従って、鉄の密度、一ミリリットル当たりのグラム数は七.八九となる。密度もこの本に書いてある。ここだ」片田が理科年表を開いて、該当のページを指さす。
そこには七.八六と書かれていた。小数二桁目が異なるのは、計算の元にした値が二桁しかないからだ。
鍛冶丸が理科年表を受け取って、そのページを見る。そこには鉄以外にも、金、銀、銅、鉛、水銀など、数多くの元素の密度が書かれていた。
鍛冶丸が暗算で密度を計算してみると、ほぼ正確だった。しかも彼らが知っている密度は、いずれも二桁だったが、三桁や四桁の数字が書かれているものもある。
「数字が三桁、四桁もかかれている所は、この桁まで正確、ということなのか」鍛冶丸が尋ねる。
「そうだ、ただし最後の一桁は、多少怪しいかもしれない」
有効数字が三桁、四桁もあるということが、とてつもないことを鍛冶丸は知っている。それらの桁を決めるためには、精密で注意深い実験をおこなわなければならない。金も労力も時間も必要だ。それをやらなくとも、この本の数字を見ればいい、ということか。
「このカタカナで書いてある元素は、まだ俺たちが知らない元素、ということか。知らない元素の密度まで書かれているのか」
「もちろん、そうだ」そういって、片田が紙を鍛冶丸達に渡す。主だった元素や液体、固体の密度が転記されていた。
「この紙を持って帰って、調べられる物の密度を測ってみてほしい。鍛冶丸は淡路に住んでいるのだろう、『ものさし』も一本持って行っていい」
その紙には、元素だけではなく、エチルアルコール、硝酸、硫酸などの液体、ガラスや食塩、砂などの身近な物質の密度も書いてあった。もちろん砂などは乾燥具合、密集具合、混ざり物の量によって密度が異なるので、記された数値には幅があった。
鍛冶丸が理科年表のページを繰ってみる。そこには密度だけではない、弾性、圧縮率、引張り強さ、粘度など様々な数字が書かれている。言葉の意味を正確には理解できていないが、もし鍛冶丸の想像どおりの性質の数字だとすると、驚くべきことだ。
これらの数字を実験で決めていくのは容易ではない、容易ではないどころじゃない、気の遠くなるような労力の結果だ。
「わかった、『じょん』。持ち帰って密度を調べてみる。もし、この密度の数字が正しいようだったら、単位系を変えてもいい」鍛冶丸が言った。
数週間後、理科年表の数字をすべて尺貫法で計算し直そう、という案も出たが、誰がそれをやるんだ、お前か、いやそれは、ということになり、片田商店がメートル法を採用した。
本文中の鉄密度7.86g立法センチメートルは、昭和の時代の鉄密度です。現在Wikipediaでは7.874となっているようです。
元素の密度は不純物、同位体比などで測定がむずかしいものなのでしょう。
出典:理科年表 昭和64年/1989年 国立天文台 丸善株式会社




