感染症
茸丸が村長室に入って来て、『いと』と同じようなことを言う。茸丸も五十歳前後になっていた。頭髪や無精ひげに白い物が混じっている。
十五年前、片田が不本意に室町時代を去ったときに行っていた施策を中心に、その後どうなっているのか、二人に尋ねる。
「南方の貿易は、今どのようなのか」片田が尋ねる。片田の最重要施策だったからだ。
片田が去る前、片田達の船隊はマラッカと交易を始めていた。マラッカ王国の依頼で、シンガプーラ(後のシンガポール)周辺の海賊掃討を行い、その功績でシンガプーラの租借権を得て、日本人街を作り始めていた。
この海域に何故、海賊が多かったのか。
主に二つの理由がある。一つはこの海域が多島海だったからだ。西のマラッカ海峡には島が少ない。しかし海峡の東側の出口であるシンガポール付近には多数の島がある。島は海賊船が隠れ場所にするのに都合がよい。
加えて、このあたりは赤道直下である。『赤道無風帯』という言葉があるように、赤道付近では一年を通して風が弱くなる。当時の船は帆船であり、櫓や櫂を除くと風が唯一の動力だった。
アウトリガーカヌーのような軽快な櫂船を島影に多数控えさせておいて、風を待つ貿易船に集団で襲い掛かる。これが、このあたりの海賊の手口だった。
この海峡は、はるか東のモルッカ諸島で収穫された香辛料を西のイスラム貿易圏に運び、香料や絹などを持ち帰る、重要なシーレーンであった。
片田の船隊は、横帆と縦帆の有効な組み合わせと、風上に『詰め開き(バイ・ザ・ウィンド)』できる能力で海賊を駆逐した。後期には動力船である外輪船も参加した。
「シンガプーラの日本人街は維持されている。だけどあまり調子はよくない」
「調子が良くないとは、どういうことだ」
「『三日熱』という病が流行っている。瘧のような病だ。向こうに行った日本人が次々とやられる。それなので渡航する人が減っている」
“やはりマラリアにやられていたか”片田が思う、マラリアを発症すると、四十八時間くらいの間を置いて発熱が繰り返される。繰り返しているうちに重篤となり、死亡する場合もある。
マラリアは、蚊に刺されて、マラリア原虫が体内に入ることにより発症する。特効薬はキニーネであるが、原料となるキナノキは南米に行かなければ手に入らない。南米への渡航を急がなければならないかもしれぬ。
蚊取り線香を作るためには、除虫菊が必要だが、これもヨーロッパのセルビアが原産だ。
蚊の幼虫は水たまりのようなところで成長する。日本人街の排水を良くすることと、昔から日本にある蚊遣、蚊帳で凌ぐしかないのだろうか。他に何か方法があるだろうか。
水たまりに洗剤や油を入れるのも効果がある、というのをどこかで読んだ気がする。シンガプーラは小さな島だ、人海戦術で潰していけば効果があるかもしれない。試してみよう。
南方貿易は、当面このくらいか、片田が次の話題に移る。
「樺太北部の油田は探してみたか」
「ああ、確かに『じょん』の行ったところに石油が出ていた。いま堺で古い船を石油樽の運搬船に改造している」
「そうか、それは良かった」
樺太北部の油田とは、サハリン・ワン、サハリン・ツーなど、サハリン島東岸から大陸棚に分布する油田のことだが、何で片田がそれを知っていたのか、不思議に思う方もいるかもしれない。
日本陸軍は、戦前にすでに樺太に油田があることを知っていた。
この油田は十九世紀末にロシア人により発見された。その後数名の起業家が油田開発を試みたが、最果ての地であるということもあり、開発に成功していなかった。
この時期、軍艦の燃料が石炭から重油に移行しつつあり、日本海軍も油田に関心を持った。
海軍の働きかけにより、日本の商事会社、石油会社が北辰会という石油開発組織を設立した。北辰会は一九二三年(大正十二年)に樺太北部のオハという地点で採油に成功し、海軍が日本へ原油五千トンを搬入している。
先の大戦では、日本がソビエト連邦を太平洋戦争に巻き込むことを望まなかった。なので、石油が欠乏しても、樺太の油田に手を付けなかった。
しかし、室町時代であれば、話は別である。当時のロシアはウラル山脈の西側にあるヨーロッパの国であった。シベリアにすらたどり着いていない。住民はほとんどいないであろう。
一方で、南方スマトラ島のパレンバンにも油田があったが、こちらはシュリーヴィジャヤ王国の古都である。住民も多いであろう。そんなところで石油を採掘したら住民と揉めるに違いない。
片田は樺太油田を選んでいた。
「石油が見つかったのは良かったのだけれど、塩屋の権太が、大変な思いをしたらしいわ」『いと』が言う。
「大変な思いをしたのか」
「ああ、その話か、気味が悪いので、みんな話したがらないが」
「どういうことだ」
「樺太南部に補給拠点を設営しにいった権太が、現地のアイヌ人の許可をもらって基地を建設したんだ。けれど、彼らが天然痘を持ち込んでしまい、アイヌの村一つが全滅してしまったんだそうだ」
「全滅か、天然痘で」片田が問う。
「ああ、そうらしい。権太が言うにはアイヌの人達にはアバタ顔がいないという。おそらく天然痘にかかったことがないのだろう、だから、あんなに酷いことになってしまった。そう権太が言っていた」
片田が考え込んだ。樺太のアイヌは天然痘に接したことがない、というのか。それで免疫がなく、天然痘ウィルスが猛威を振るった、ということか。
これは困った。
片田の構想のなかには、アメリカ大陸進出というものがあった。スペインがアメリカ大陸を蹂躙する前に、彼らと交流してスペインに抵抗する力を持たせたかった。
これに成功すれば、南北アメリカ大陸を味方にできる。
しかし、樺太のアイヌに天然痘の免疫が無いとすると、アメリカ大陸の住民も免疫が無いだろう。片田達がアメリカに上陸すれば、大陸中に天然痘をばらまくことになる。それではだいなしだ。
マラリア対策でキナノキを手に入れるにしても、慎重にならなければいけない。
マラリア、それに天然痘か。やっかいだな。
少数のスペイン人が新大陸の人々を支配できた原因として、火器や戦術以外に、旧大陸の感染症の蔓延があったという。
現代では、高校の世界史の教科書にも出てくる常識となっている。
しかし、片田の時代、そして一九六〇年代には、このことは一般には知られていなかった。
新大陸での感染症の脅威が一般に知られるようになるのは一九九七年(日本では二〇〇〇年)に出版された
「銃・病原菌・鉄」ジャレド・ダイアモンド、草思社
あたりからだと思われる。同書が紹介する『関連文献』においても、アメリカ大陸での天然痘に関する研究は一九八〇年代あたりからである。
ひるがえって、例えば一九六〇年代前半に出版された
「世界の歴史」全十六巻 中央公論社
では、新大陸から旧大陸に梅毒がもたらされた、という記述はあるものの、
旧大陸から新大陸に天然痘、麻疹などがもたらされた、
とは書かれていない。
だから、片田の構想のなかに、新大陸での感染症対策が無かったのは仕方のないことである。これは今考えてもしかたがない、別途ゆっくり考えよう、そう片田は思った。
「ところで、古墳のところの神社なのだが」片田が言う。
「ああ、あれか。だって『じょん』が勝手にいなくなってしまったのだから、ああするしかないだろ」茸丸が言う。当然だといわんばかりだ。
「しかし、あれは恥ずかしい」
「そうでしょうね。自分が神様にされているんじゃね」『いと』が笑う。
「でも、帰ってきた」片田が言う。
「そうね、帰ってきたのだったら、神様はおかしいわね。わかったわ、村の人に頼んで、額は下げさせるわ、石柱の刻字の方は、そうね、漆喰で埋めさせるわ」『いと』が笑いを堪えながら言った。
「額は取っておこう」茸丸が言った。
「どうして」
「また『じょん』がいなくなったら、すぐに掛けられるようにだ。やられたくなかったら、失踪しないことだ」茸丸が『いと』にいっているような様子で、片田を牽制した。
『いと』が堪らずに噴き出した。
「ええ、ええ、わかったわ、額は取っておきましょう」『いと』が、かろうじてそう言って、後は笑い転げた。




