火星(かせい)
大学が年末年始の休みに入る。二週間程、算田教授の授業も休みになる。
休みの間にPDP-8の技術資料を読み込もう、片田が考えた。
小出君に案内されて、大学の購買部に行き、PDPのハンドブックとレファレンスを購入した。算田教授が購買部に依頼して、数冊ずつ輸入していたのだった。もちろん英語なので、ついでに最近出版された研究社の新英和中辞典を購入する。今出ている英和辞典では一番良い、と小出君が薦めてくれたものだ。
近くの書棚に、同じ研究社の羅和辞典を見つける。『羅』は、ラテン語のことだ。片田が少し考え込む。もしかしたら、これは役に立つかもしれないと思い、これも購入することにした。
そんなものが、何の役に立つのか。
自宅アパートでコタツに潜り込み、ミカンをかじりながらハンドブックとレファレンスを読む。幸いどちらも平易な英語で書かれていたので、読む分には、あまり英和辞典の世話にもならず読めた。
しかし、その内容となると、話はまた別であった。電子工学、論理学などの専門用語が頻出する。特に通信技術に関する専門用語には閉口した。なんのことか、さっぱりわからない。
とりあえず桜井市の市立図書館が、まだ開館していたので、そこに駆け込み必要と思われる専門書を数冊借りることにする。
これらのハンドブックなどは大きく、厚みもある。そもそも紙の厚みが同時代の日本の書籍とは比較にならない程に厚い。まるで画用紙である。そんなところにも圧倒的な国力差を感じる。
これは室町時代には到底持っていけない。
そこで、必要とおもわれるところを彼のノートに筆写する。
彼が理解した範囲内で、記録した方がよかろうと思った部分だけ筆写する。メモリ更新タイミングのチャートやアスキーコード表、機械語やアセンブラの命令セットなどである。これらはむこうに行ってから考えることも出来るかもしれないが、すでに実績のあるものを使った方がよい。
大晦日になる。
今年の大晦日は、晴れたら玄室に行き、そこで新年を迎えようと決めていた。幸い快晴となり、風も穏やかだった。
片田がリュックサックに英和辞典と羅和辞典を加え、その上に冬用の寝袋を結びつける。この季節に蚊取り線香はいらない。
この日の日没は午後五時少し前である。理科年表にはこんなことも書かれている。
夕方四時に桜井の彼のアパートを出て、四時半には古墳の入口にたどり着く。玄室の入口両側には、人間が加工したと思われる石柱が数本立っていた。以前『ふう』と、ここに来た時には、こんなものはなかった。石柱の表面は風化していて、枯れたコケに覆われている。
何か書いてあるような気がするが、とても読めない。
それなので、気にしないことにしていた。
中に入って懐中電灯を点ける。奥に広がる玄室まで行く。
玄室の隅に保管していた海水浴用のビニールマットに空気を入れ、その上に寝袋を拡げる。
“今日こそは室町時代に行けるかな”片田が思う。
室町時代に行くことと、電子計算機の仕組みをマスターすること、片田の中での優先度は前者の方がはるかに高い。室町時代に行ってさえしまえば、片田が今持っている知識だけで、なんとでもなると考えていた。
前回に室町時代に跳んだ時の条件について、色々列挙してみる。これまでにも、何度も色々なことを列挙しては試していた。
熱帯地方だった。ニューギニアだった。近くに川が流れていた。光るものが無数に飛んでいた、蛍かな。
何が跳ぶための条件なのか、それを知らないので列挙して、できるものを試してみるしかない。
銃で撃たれて、死にそうだった。
ああ、これはそうかもしれない。しかし、これはおいそれと試すことができない。元軍人だといっても、死ぬのは嫌だ。ましてこの状況では、国の為に死す、というものではない。失敗すれば犬死である。
死にそうになる、というのならば、試せるかもしれない。玄室の中で一酸化炭素中毒とかならば、手近なもので試すことが出来る。しかし、一酸化炭素中毒では、後遺症が残ってしまうかもしれない。
そんなのは、ダメだ。
夕飯代わりに持参したクラッカーをかじりながら水筒の水を飲む。考え事をしながら飲んだので、クラッカー混じりの水が、少し気道の方に流れ込んでしまったらしい。
大きくせき込む。呼吸をしようとするが、気管が異物を排除しようとして繰り返しせき込み、息ができない。さらに呼吸しようとするが無駄だった。このままでは、あぶない。そう思った時に、やっと呼吸が戻ってきた。やれやれ、死ぬかと思った。
そうか、窒息ならば、いけるかもしれない。自分の意思で我慢できるところまで息を止める。これならば出来そうだし、ぎりぎりのところでダメだと思えば息を吸えばいい、すぐに回復する。万一気絶しても、意識がなくなったとたんに、自然に呼吸が再開されるだろう。
“試してみるか”
マットの上で、リュックサックを抱えながら、息を止めてみる。我慢して、我慢して、我慢してみる。肺が新鮮な空気を要求する。頭が鈍くなってくる。
脳が鬱血してきたように感じる。目を瞑る。
以前に室町時代に旅立った時に見た光るものが一つか二つ、閉じた目に映ったような気がした。
そこまでが限界だった。
諦めた片田が大きく息を吸う。
呼吸を整えた所で片田が思う。あと少しのところのような気がした。でも、まだ何かが足りない。
何だろう、以前に跳んだ時のことを、さらに思い出そうとする。大量に出血していた。しかし、これは試すことが出来ない。他に何かないか。
夜だった。星が見えていた。瞬かない赤い星があった。“あれは火星だろうか”と声なく呟いたことを思い出す。
“火星”か、今って火星出ているのだろうか。玄室を出て夜空を眺めてみることにする。士官学校で、簡単な天体観測の方法は習っていた。太陽と惑星が天の黄道に沿って移動することも知っている。
外に出てみると日没であった。大晦日の太陽は既に沈み、西の空が冬の澄んだ藍色に染まっていく。
残照のすぐ上のところに赤い星がある。
『やぎ座』のヤギの尾のあたりに、それはあった。他の星とは異なり、瞬かない。
“あそこに目立つ恒星はなかったような気がする。たぶん火星だろう”
玄室にとって返し、リュックサックを背負う。入口に戻り、火星の方に向かって地面に胡坐をかく。わずかな時間だったが、周囲は暗くなっていた。
先ほどと同じように息を止めてみる。脳が再び赤い靄に包まれる。その中に無数の光が現れる。先程とは比較にならない数だった。
“これだ”
片田の体が無数の光の粒となって、空に駆けあがった。




