プロローグ(その1) アイヌの村
両舷側に大きな水車を付けたような、異形の帆船が湾に入ってくる。
船から縦に筒が伸びていて、黒い煙を吐き出している。
遅い春を迎えた河口の両岸には一面の花畑が広がる。その花畑の中に集落が浮かんでいた。帆船は岸から少し離れたところに錨を降ろす。一艘の連絡艇が降ろされ、岸に向かってきた。小舟には三人の男が乗っている。
一人は船尾で櫓を漕いでおり、他の二人は船首に前後して座っていた。
集落のひとつの建物から子供が飛び出してくる。子供が帆船に気付いたようだ。なにか叫び声をあげながら、出て来た家に引き返した。
家の中から五人程の大人達が出てくる。その中の一人が棒を柱に何回も叩きつけ、他の家に知らせる。
二十軒程の家々から住民が出て来た。男達は皆髭を長く伸ばしている。
小舟が岸に着いた。二人の男が上陸して、砂浜の上に白い布を拡げる。布の上に棒のようなものを幾つも並べた。村人は遠巻きに眺めている。
浜に何かを並べ終えた二人が小舟に戻っていき、舟が岸から少し離れたところまで後退して止まった。
到来者の一人が村人に向かって叫んだ。布の上にあるものを村人に差し上げる、贈り物だ。そのように言っているようだ。
村人がよく見てみると、その男だけ髭を伸ばし、彼らと同じような服を着ていた。他の二人は、髭が無く、服装からして南方の人々のようだった。
村の男達が、おそるおそる白い布に近寄る。小刀、脇差、鉈などだった。鞘を外すと銀色に輝く鋭い刀身が現れる。
男たちは、みな喜んだ。これをくれるというのか?
彼らは鉄器を知っていたが、交易で手に入れなければならないもので、貴重だった。
男達が相談を始める。しばらくすると白髪白髯の男が小舟の方に向かって、こちらに来るように、という合図をした。小舟が近寄ると、彼が言った。
「贈り物はありがたいが、村の男の数に比べて少ない。一人一つの贈り物がないと、村内で揉めることになる」
船内で髯をはやした男が、もう一人の男に翻訳する。髯のない男が短く何か言う。
「村には何人の男がいるのか」
長老と思われる白髯の男が両手を広げて閉じる。それを四回繰り返し、さらに指を三つ立てる。
「四十三人か、わかった。少し待っていろ」
連絡艇が帆船に返り、追加の小刀などを携えて長老の前に戻ってきた。
「よかろう」長老が頷きながら続けた。
「それでは尋ねる。お前たちは、何をしにきた。なにが望みなのか。それを聞かせてほしい。それによって、贈り物を受け取るかどうか決める」
「我々は、この島の北に向かう途中だ。これから何度も繰り返し北との間で行き来しなければならない」
「それはわかった」
「船には真水や食料が必要だ。川から水を採ったり、食料などを保存しておく場所が欲しい」
「うむ、それで」
「川の向こう岸に、我々の船を着けるのにちょうどいい場所がある。そこに食料などを保存する小屋と桟橋を作りたい」
「そこに住むのか」
「夏の間、何度か立ち寄るだけだ」
「食料といっていたが、この土地の獣を獲るのか」
「いや、獲らない、食べ物は持ってくる。小屋に使う材木も持参してきたので、木も切らない」
「食うのに困ることもあるものじゃ」
「その時は、君たちから買う。同じような刀や鉈と交換しよう」
長老と男達が、すこしの間相談する。
「よかろう。上陸するが良い。わしのチセ(住居)に来て、詳しい話を聞かせてほしい」
塩屋の権太が通訳の男と共に、長老の家に入る。家は二間で出来ているようだった。干藁を編んだ戸を開けて入ると小さな土間があり、その先にまた戸があって、囲炉裏のある広い部屋になっている。
土間は道具置き場や、雨の日の作業場らしい。囲炉裏のある部屋は藁と茣蓙が敷かれている。
権太と通訳は入口から入って右側の奥に導かれて座る。正面の囲炉裏を挟んだ場所に長老が座った。
「で、島の北に行くと言っていたが、なにがあるのじゃ」
「私たちは、この島を樺太と呼んでいますが、樺太の北のはずれに石油というものが採れる所があるはずなのです。石油とは、黒い燃える水のことです」
「石油、とな。そんな名前ではなかったが、聞いたことはある。おぬしが言う通り火を付ければ燃えるらしいが、なんでも恐ろしく臭いとのことだ。料理にも使えない。だからだれも燃やそうとしない」
「たぶん、それのことです」
“『じょん』の言ったとおりだ。やはり樺太の北に石油の出るところがあるんだ”権太が思った。
「明日から対岸に六人を上陸させて、小屋を建てさせて欲しい。小屋は八棟建てたい」権太が言い、小屋の大体の大きさを示した。長老が承諾した。
権太と通訳、それに六名がこの村に残って小屋の建設を行う。
それから、権太がやってきた堺のこと、日本の風俗や風習を話題にする。長老は樺太で獲れる獣や魚などの話をした。
世間話になったところで、長老の家族の者達が入ってきて、食事の準備を始める。話し込んでいるうちに夕方になってしまった。
「今夜は、うちで食事をとり、二人とも泊まっていきなされ」長老が言う。今後の事を考えると招待を受けておいた方がいいだろう、そうおもって権太は長老に従うことにした。
通訳の男を、小舟で待っている漕ぎ手のところに行かせる。
漕ぎ手に帆船で待つ艦長、金口の三郎まで、二人が長老宅に宿泊することを伝言させることにした。
この通訳の男は、北海道南部、松前に住むアイヌ人だった。
金口の三郎は、砲艦『木曽』艦長として、ウツロギ峠の安宅丸に補給物資を送った男だった。現在では外輪船『阿武隈』の艦長だった。
『阿武隈』は蒸気機関で動く外輪を持っている探検船だった。回転する外輪があるので、風が無くとも自由に操船することが出来る。そのかわり、舷側砲はわずかしか載せられない。なので、探検船として就役した。
通訳が出て行ってしまったので、会話が途絶える。
権太から見て、左手は女や子供の場所であるらしい。二人の女が土器のなかで魚や野菜を煮ている。その脇に一歳になるか、ならぬかの子供が座っている。
権太と目があうと、こちらに這い寄ってきた。権太は子供好きだったので、目を細めるようにして微笑んだ。以前、堺の片田商店に子供がゲジゲジや泥団子などの交易品を持ち込んできたとき、相手をしたのが権太だった。
「かわいいですね。名は、なんというのです」通じないことを忘れて、つい言った。
なんとなく、意味が通じたのであろう、長老が言った。
「オソママチ」
「オソママチ、ですか。かわいい名前ですね」権太が応じた。長老も微笑えむ。
通訳が帰ってきた。
「みてみろ、オソママチって言うそうだ。かわいいじゃないか。どういう意味だ」権太が尋ねる。通訳が困ったような顔をした。それを見た長老が言う。
「アイヌは子供に汚い名前をつけるのだ。なぜならば病魔はきれいなものが好きだからだ」
「なので、子供がある程度育つまでは仮の名前をつけ、病死の可能性が無くなってから正式の名前をつけるのです」通訳が続けて説明した。
「オソママチとは糞女という意味です」通訳が言った。
それを聞いた権太は、目を丸めて驚いたふりをし、大声で笑った。
長老と、その家族もつられるように笑う。
翌朝。
『阿武隈』は早朝に湾から抜け出し、湾口で停泊していた輸送船を曳航して湾内に入ってきた。輸送船は普通の帆船だったので湾内では自由が利かない。
輸送船から補給所建設のための資材が陸揚げされる。建設作業者の六人も上陸した。彼らは夏の間、この村で八棟の倉庫や宿舎を建設する。
三郎の『阿武隈』が、さらに北を目指して出港した。うまくすると今回の航海で油田が発見できるかもしれない。
輸送船のほうは、最初の一棟の倉庫兼宿舎が出来るまで湾に停泊し続け、そこに収められるだけの食料や石炭を残したのち、風を待って南の堺に帰って行った。
補給所が確保出来たこと、『阿武隈』がさらに北に向かったことを報告するとともに、トンボ返りで戻って来て、来夏のための物資で六棟の倉庫を一杯にする。
油田がいつ見つかるかわからないし、油田が見つかれば油井掘削資材や人材の運搬、石油の運搬など、中継補給処は忙しくなるはずだ。
権太達八人が残り、建設に励む。権太は造船が専門だったが、今回は彼の考えた工法の実験だった。
予切工法という。造船所で予め切断しておいた建材を船で運び、現場で手早く倉庫や宿舎を建設する工法のことである。現在ならばプレカット、ないしはプレハブ工法という。
建設期間が大幅に短縮できる。
異変は一月ほどして起きた。
権太達八人は三食を村の人達からもてなされていた。食料は自給できるように米や煎餅、缶詰飯、魚缶を持ってきていたが、調理した料理のほうがありがたいので、朝晩村の女たちの手料理を堪能していた。
ところが、村の者達が一斉に発熱しはじめたのだった。頭痛や腰痛もひどく、まかないどころではなくなった。大人も子供も区別は無かった。
数日して発熱が収まったと思ったら皮膚の表面に大豆のような瘡ができる。瘡が増えて全身を覆い始める。初めは硬い瘡だが、やがて化膿して膿の固まりになる。こうなると再度高熱がでて、身動きもできない。
権太は疱瘡を知っていた。日本の子供ならば、誰でも一度はかかる病気だ。程度に差があり、たいていの者は治る。たまに重症になったものは顔に一生のこるアバタができることもある。でも、全員が死んでしまうような病気ではない。たいがいは治る。そして二度と疱瘡にならない。
子供が一度は経験しなければならない通過儀礼のようなものだった。
しかし、これほど一斉に疱瘡が流行するのは見たことがない。また、これほど全身びっしりと疱瘡ができるような患者を見たこともなかった。
何が起きているんだろう。ただの疱瘡じゃない。権太が考える。
「そういえば、ここのアイヌの人達、アバタ面が一人もいないな」権太が気付いた。
権太達八人は倉庫の建設をそっちのけにして村人の看病にあたる。どうなってしまうのだろう。みな怯えた。
疱瘡は体表だけでなく、内臓にも起きているようだった。たぶん肺にも発生しているのだろう。多くの村人が息苦しさを訴え、呼吸困難で一人、また一人と息絶えた。
権太が長老の家に行く。昨日はまだ、幾人か生きていた。せめて水を飲むのを助けるか、頭を布で冷やすか、出来るだけの事をしてやらなければならない。
通訳とともに、長老のチセに入る。全員息絶えたのか、一目みてそう思ったが、長老の唸り声が聞こえた。駆け寄ってみる。
「おまえさんがたが持ってきたのか、病魔を」かろうじて長老が言う。通訳が苦しそうにそれを権太に翻訳した。
権太の目に涙が滲む。
「申し訳ありません。こんなことになるとは知らなかったのです。申し訳ありません」
権太が長老の手を握る。
長老が力尽きた。権太はしばらく突っ伏したまま、長老に詫びた。
やがて、起き上がる。部屋には家族の骸が横たわっている。小さなオソママチの姿もあった。全身を膿胞に包まれて、無残な姿でこと切れていた。
突然よろけながら村の男が入ってくる。やはり全身膿胞だらけだ。手に鉈を握って権太に襲い掛かろうとする。なにかわめいている。
鉈を振り下ろそうとするが、掌に無数に出来た膿胞がつぶれ膿が溢れる。膿によって手がすべり、鉈が権太をかすめて飛んで行ってしまう。そのまま男が倒れる。
「逃げましょう」通訳の男が言った。
権太達八人は宿舎に戻った。人数分の天幕と缶詰などの軍用食料を持ち、桟橋につないであった連絡艇に乗る。
「しばらく村から離れていよう」そういって苦しそうに続けた「そんなに長いことにはならないだろう」




